六軒島の花嫁 第五話が完成しました。
今回自分が担当しました。それではどうぞ。








 カチ、カチ、カチ。

 アンティークと呼べそうな、大きな古時計が秒針を刻む。普段は気にしないような、そんな小さな音も、朝の静寂の中でははっきりと聞き取ることができた。
「…………ん」
 夏妃はその音を聞き目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。とても眠れそうな気分ではなかったが、昨日の疲労は思ったよりも大きかったらしく、自分でも気付かないうちに眠っていたようだ。
 体をベッドから起こすと、カーテンの隙間から朝の木漏れ日が彼女の顔を照らしていた。だが、それを心地良いとは思わない。昨日嫁いできたばかりで、何もかも初めてであるこの家では、そんな気分にもなれるわけもなかった。しかし、夏妃の胸中にはそれとは別のわだかまりがあった。彼女は昨夜のことを思い出す。

 ……昨日の夜……、夫婦として初めて夜を共にしたあの時、夏妃は蔵臼を拒絶した……。

 初めて彼に会った時の印象は夏妃にとって好ましいものではなかった。傲慢で、利己的。それが、夏妃の蔵臼に対する率直な印象だった。
 しかし、金蔵の部屋を出た時に掛けてもらった言葉は、彼の本心だったと思った。そして、蔵臼が金蔵の部屋に向けるその眼差しを見た時、彼女は思った……。

 ……彼もまた、この家に囚われている人間なのだと……。

 そう思った時、彼女は彼を理解しようと考えた。例え、自ら望んだ結婚ではなくとも、人生の伴侶として、彼を支えて生きて行こうと。



 だが…………。











『…………また、冬花に叱られてしまうな。
―――女房のエスコートもまともにできないようでは、ろくな男になれない―――
………か。ははっ、情けない………』






 その言葉を聞いた瞬間、夏妃が蔵臼に抱いていた想いは霧散した……。





 ―――私に掛けてくれた言葉は、本心ではなかったのですか?―――












六軒島の花嫁 

第五話「それぞれの想い」










 夏妃はベッドから立ち上がると真っすぐにドアへと向かう。美しい装飾が施されたドアノブを捻り、彼女は廊下へと出る。蔵臼は隣の空き部屋で眠ると言っていた。隣に部屋があることを確認すると、彼女はドアの前で立ち止まる。そして、その場でしばらく考え込む。

 ―――昨日のことを謝らなければ―――

 そんな思いが彼女を支配していた。

(―――何故?)

 昨日蔵臼が夏妃に掛けた言葉は、彼の本心ではなかった。あの使用人に諭され、夏妃に対する態度を改めたにすぎない。それだけではない。昨日、蔵臼が夏妃に向けた言葉は…………



『君は………何のためにこの島に来た!? 俺の子を産むためではないのか!?』



 蔵臼が夏妃に向けて吐いた暴言は、彼女の心を深く傷つけていた。それならば、彼女が蔵臼に謝る道理は無い。にも関わらず、夏妃は彼に謝らなければならない気がした。
 そして……、あの冬花という使用人……。彼女は一体、彼にとって何なのだろう? 昨日の彼女と彼のやり取りをみて、単なる使用人ではないように思う。彼女のことが頭に浮かぶと、夏妃は自分の中に黒い感情が湧いてくるのを感じた……。
 だが、蔵臼が夏妃にとって好ましい人間でないなら、彼と冬花がどんな関係であろうと、自分には関係がないはず。何故そのように感じるのか? 彼女には分からなかった……。



 少し間を置いてから、夏妃は遠慮がちにノックをする。
「……蔵臼さん、おはようございます。夏妃です」
 どうやって話を切り出そうか? ノックをしてから、夏妃はこれからどうやって話をすれば良いのか思案する。先にそれを考えれば良かったと彼女は頭を悩ませる。やや、緊張した面持ちで、夏妃は蔵臼が部屋から出てくるのを待った。しかし……。
「…………?」
 何の返事もない。ノックの音が聞こえなかったのだろうか? そう思い、彼女は先程よりも強めにノックした。
「蔵臼さん、夏妃です。おられますか?」
 しかし、やはり何の反応もない。夏妃は一瞬躊躇ったが、ドアノブに手を掛ける。そしてドアノブを回し、ゆっくりと扉を開ける。
「………え?」
 部屋の中には誰もいなかった。昨日は別の部屋で眠ったのだろうかと一瞬思ったが、そうでもないようだ。やや乱れたベッドに、半開きになったクローゼットの中には、昨夜蔵臼が着ていた服が掛けてあった。どうやらすでに着替えを済ませた後らしい。
 蔵臼がこの部屋にいないことが分かると、彼女は再び廊下へと出た。

(何処に居るのかしら……?)

 ほんの少し気を急かしながら、夏妃は蔵臼を探し始める。昨日のことなど、急いで話す必要もない。そもそも、自分が謝罪する必要すらないのだ。しかし、彼女は蔵臼がどこにいるのか探し回る。

(……どうして?)

 彼女は自問自答してみる。しかし答えは見つからなかった。



 夏妃は、どこに蔵臼がいるのかと、屋敷の中を歩き回る。やがて廊下を抜け、階段を降りる途中で人影を見た。一階のホール、そこには朝から掃除に精を出す冬花がいた。
 彼女を見て、夏妃は思わず足を止める。しかし、このまま無視するわけにもいかない。夏妃は躊躇いながらも、階段を降りた。
 ホール降りた所で、冬花は夏妃に気付いたようだ。彼女の方を向き直し、頭を下げる。
「おはようございます、夏妃さま」
 屈託のない笑顔で夏妃に声を掛ける。その笑顔に、夏妃はややぎこちなくではあるが、笑顔で応えた。
「お、おはようございます、冬花さん」
 夏妃の笑顔に、冬花もまた笑顔で返す。
「夏妃さま、部屋から御出になるのなら、せめて着替えてからがよろしいですよ?」
「え? あっ……!」
 言われて初めて気が付いた。夏妃は昨夜のネグリジェのまま、屋敷を歩き回っていたのだ。
「す、すいません……」
 顔を赤らめながら夏妃は小さく応える。見られたのが冬花で幸いだった。これが絵羽だったら、また何を言われるか分かったものではない。
「くすくす、いいですよ。でも早めに着替えたほうがよろしいかと」
 冬花は可笑しそうに微笑む。それを見て、夏妃は頬が緩むのを感じた。さっきは彼女に対し、暗い感情を持ってしまったがそれは早計だった。見ず知らずの自分に対しても、彼女は笑顔で応えてくれる。彼女の笑顔を見て、夏妃は安堵した。
「夏妃さま、すでに朝食の準備が済んでいます。シェフが腕によりを掛けているので温かいうちにお召し上がり下さい」
「はい、すぐに着替えて来ますね」
 階段を上がりかけた所で、夏妃は立ち止まる。肝心のことを聞いてなかった。蔵臼が何処にいるのかだけは聞いておこう。
「ええっと、あの、蔵――――」





「ああ、蔵臼さんですか?」





 蔵臼さん・・・・

 冬花はそう言った。
 その言葉を聞いた瞬間、夏妃は再び黒い感情が湧きあがるのを感じた。
 そう、昨日も彼女は蔵臼をそう呼んだ。


 ああ、―――クラウスサン―――ですか?


 それは、夏妃にはどうすることもできなかった。
 冬花が悪いわけではない。彼女は誰に対しても明るく、屈託のない笑顔で周囲の人々を明るくさせる。たまに、家人に対して心易く接しすぎることもあるが、それも彼女の魅力のうちだった。
 実際、夏妃もつい今まで彼女と接し、心安らぐものを感じた。しかし……。
 ……夏妃は想像する。
 この冬花という女性は、蔵臼に対しても同じ態度をとっているのか?
 さっき私に見せた笑顔で、彼と話し……、彼を―――――。














 ―――――蔵臼さんと呼び、楽しそうに話しているのか?










 ……駄目。この感情は良くない……。

 夏妃は湧きあがってきた黒い感情を必死に抑える。息を整え、しかし、平静を装いながら蔵臼のことを尋ねる。
「…………ええ、蔵―――、…………主人は今何処に……?」
 主人、と夏妃は尋ねる。それは、冬花に対しもの言えぬ夏妃の、精一杯の抵抗だったのかもしれない……。
「蔵臼さんは今朝早く、お館さまと御出掛になられました」
 そう言う冬花の表情には、何の変化も見られない。
「そ、そうですか……」
 夏妃は改めて冬花の顔を見る。そこには先程と何ら変わらない冬花の笑顔があった。あまりにも何の変化も見られない冬花の表情を見て、夏妃は自分の抱いた感情が杞憂だったのかと疑問に思う。
「それで、お二人は何処にお出かけになられたのですか?」
「お仕事の関係で本土へ行かれました。しばらくは島に戻って来られないそうです」
「え……? そう、ですか……。分かりました、ありがとうございます……」
 しばらくは戻って来れないと聞き、夏妃は複雑な思いだった……。昨日、蔵臼が呟いた言葉が許せないと思う一方、彼に謝ることができない、という相反する気持ちが交錯する。自分は、彼に居て欲しいのか? 居て欲しくないのか……?
 そして、昨日の絵羽とのやり取りが思い出される……。蔵臼のいないこの家で、どうやって家人と接すれば良いのか?
 彼が戻って来るまでの間のことを考え、夏妃の不安は募るばかりだった…………。



 夏妃の姿が見えなくなるまで、その背中を見ていた冬花だったが、やがて小さく呟いた……。
「……主人……、か……」
 それは小さな……、本当に小さな呟きだった。しかし、確かに口にした……。
 だが、冬花はそれ以上口にはしなかった。そして、彼女は踵を返す。使用人の朝は激務だ。のんびりはしている暇はない。彼女は仕事に戻ることにした。
 ……否、戻ろうとした。
 もう一度、その可憐な唇をほんの少しだけ動かしてみる。
 声にならないその名前は、この広いホールに響くことすらなく、ひんやりとした朝の空気の中に一瞬で消えていった。



 くらうす、さん。



 そして冬花は、今度こそ自分の持ち場に向かい、その歩みを進めた。
 その声にならない想いを、断ち切るように。





 その日、彼女は半年ぶりにミスを犯し、源次に叱責された。










































 人々の喧騒、街を埋め尽くす雑踏。そこは、未だに魔女の伝説が囁かれる六軒島とはまるで別世界。戦後、東京は急速に復興を始めている。未開の土地ばかり残されている六軒島を魔界とするなら、ここは正に人の世そのもの。
 どんな御伽話も、ファンタジーも、ここでは一切存在を許されない。ここに来る度、自分が住んでいる島が、実は魔界なのではないかと疑ってしまう。そう思えるほど、二つの世界は掛け離れていた。
 しかし、そんな物想いに耽っている余裕は今の蔵臼にはなかった。
 まだまだ高い建物が少ないこの時代、周囲からひと際目立つように、高いビルが立っている。そのビルのとある応接室。そこに蔵臼の姿はあった。豪華なソファーに腰掛け、正面にいる商談相手と取引を行っている。
 しかし、そこに寛いでいる表情は見られない。彼の表情は、片翼を持つに相応しい獰猛な猛禽類の顔そのものだった。そして、蔵臼と商談相手の向かっているテーブルの横、そこには深くソファーに腰掛け、取引を眺めている金蔵の姿があった。
「し、しかし、それでは当初の内容とは異なります!! 我々が提出したプランならば、双方に有益な―――」
「双方に? あなた方の間違いでしょう? この内容を見る限り、我々に有益な事業であるかは、些か疑問に思いますが?」
「いえ! それは事業の初期段階の話です!! 長期的な視野から考えれば、そちらにも確かな利益が―――」
「しかし、リスクを考えれば初期段階で事業が頓挫する可能性もあります。そうなると不利益を被るのは我々の方、あなた方の被る被害はごく僅か。これでは我々にとってあまりにも不利な条件では?」
「そのような可能性は万に一つもありません!! この内容なら、我々にとっても、あなた方にとっても確実に利益になります!!」
「ビジネスにおいて、絶対というものはないでしょう? この世界に生きる者ならば、それは重々承知のはずです」
「しかし、現状ではそのような可能性は限りなく低いはずです!」
「あくまで机上の計算です。我々にとっては、必ず渡らなければならない橋ではない。あなた方の利益を優先させる必要は我々にはありません」
「ぐっ……!! お待ち下さい、当方としても右代宮グループと共に事業を成功させる意思はあります。もう一度、本社と連絡を取りますのでお時間を下さい」
「分かりました。この事業が双方にとって有益なものになることを願っています」
 そして、蔵臼と対談していた男は部屋を出ていった。椅子から立ち上がり、その男が出て行ったのを確認すると、蔵臼は大きく息を吐いた。表向きは余裕に見えた蔵臼だが、内心は取引の緊張で疲れ切っていた。
 六軒島次期当主とはいえ、まだ大学を卒業したばかり。社会での経験が圧倒的に少ない蔵臼にとって、毎回の商談は大変な仕事だった。とは言え、それを表情に出さない蔵臼の交渉術は見事なものだった。
「どうでしたか、お父さん? 今回の商談は上手く―――」



  バシッ!!!



 金蔵は蔵臼の頬に平手打ちを喰らわす。容赦のない金蔵の一撃に、蔵臼は床に倒れた。
「何だ、今の交渉は!!?」
 蔵臼の努力を金蔵は一蹴する。
「あの程度の相手に何を手こずっている? 時は金だ。無駄に時間を掛けるな!!」
「………すいません」
 そう言う蔵臼の右手は固く握られ、拳を震わせていた。しかし、蔵臼はそれ以上何も言わなかった。どんな理不尽な仕打ちだろうと、金蔵の持論は理に適っていた。だから蔵臼は、悔しさを噛みしめながら金蔵の話に耳を傾ける。
「良いか、蔵臼。ビジネスは戦争だ。いかに相手から金をむしり取るかが全てだ。その為には手段を選ぶな。いかに強力なカードで相手をねじ伏せるか。手元にカードがなければ、如何にそう思わせるか。切り札は隠すものだが、時と場合による。先に強力なカードを出して、こちらのペースに引きずり込むかで勝負が決まる。その為には弱腰になってはならん。どんな時でも、常に自分の優位を保て。例え分の悪い勝負でも、それを相手に悟らせるな。お前が余裕を見せているのは上辺だけだ! 交渉に長けた者ならば、お前の心うちなど即座に見破られるわ!!」
「……申し訳ありません」
 金蔵は如何にしてビジネスで勝つのかを、蔵臼に熱弁する。しかし、二十歳そこそこを過ぎたばかりに蔵臼にとって、ビジネスの最前線はつらいものだった。何度か金蔵の立ち会いの下、商談を行ったが、まだ慣れるまでは時間が掛かりそうだった。
「一時間後には商談を再開する。それまでには戻って来い」
「はい、分かりました」
 応接室を出て、ようやく一時の自由を蔵臼は得た。



 紙コップに入ったコーヒーを片手に、蔵臼はビルを出る。少しでも商談のことを忘れたい蔵臼はビルから離れ、近くの公園のベンチに腰掛ける。コーヒーを一息に飲み、ようやく彼は息をついた。
 金蔵の教育は厳しいものだった。蔵臼に、ありとあらゆるビジネス論を問い、少しでも気に入らない答えが返って来ると、罵詈雑言を浴びせられる。しかし、どれだけ理不尽な言葉でも、金蔵の理屈は理にかなっていた。
 金蔵のビジネスの腕前は卓越していた。どれだけ不利な状況だろうと、それを微塵も臆面に出さなかった。常に強気で、絶対に自分の弱みを見せない。時に、ハッタリをかまし、時にブラフをかけ、自分の用いる最高のカードでギリギリの勝負をかけながら、常に勝利を収めてきた。それは、彼の驚異的な幸運もさることながら、その辣腕による所が大きかった。
 蔵臼も必死でそれを学ぼうとはしているが、金蔵のある種神がかり的な才覚の前では、蔵臼の努力など微々たるもの。
 右代宮金蔵の持つ、圧倒的カリスマが蔵臼にはなかった。それは無理からぬこと。金蔵本人も、蔵臼と同年代の頃は今の様なカリスマは持ち合わせていなかった。しかし、戦争という異常な状況を乗り越えることで、彼には今日のようなカリスマが備わったのだ。
 事実、金蔵の持っている才能は、彼の子どもたちには誰ひとり受け継がれなかった。金蔵の才能は天賦によるものではなく、後天的に備わったものだ。彼の子どもたちが同じような才能を発揮するには、同じような異常な状況を乗り越えない限りないだろう。
 しかし……、それでも蔵臼は、いつか父の様な才能を発揮したいと、日々努力していた。一体、自分と金蔵の何が違うのか? 何故兄弟たちには金蔵の才能が受け継がれなかったのか、日々自問自答している。
 そんな時、蔵臼はつい自分と他の兄弟たちを比べてしまう。そんなことをしても、現状が何か変わるわけではないのだが、どうしても考えずにはいられない。

 絵羽は、恐らく兄弟の中で一番優秀だろう。彼女は金蔵の才能に、一番近い所にいる。金蔵とまではいかないまでも、彼女の才能は本物だった。男顔負けの気の強さで、何をやらせても兄弟の中で一番。彼女が男だったら、長男の自分を差し置いて、彼女が次期当主になっていただろう。もちろん、それは彼女が人知れず努力している賜物だった。
 留弗夫は、何と言うか要領が良かった。兄・姉に挟まれ、どちらの不興も買わないよう、すり抜けていくのが上手かった。彼は、金蔵の狡猾さを最もよく受け継いでいた。世渡りの上手い彼は、中学生でありながら早くも学校でプレイボーイ振りを発揮しているらしい。一体どんな大人になるかは少し心配だが、彼なら上手く生きていくだろう。恐らく、ビジネスにおいては、将来彼が最も成功するに違いない。
 楼座は金蔵には全く似ていなかった。あれは完全に母親似だ。容姿はもちろん、普段控えめで大人しい所も、自分の決めたことは頑として譲らない芯の強さも、何から何まで母にそっくりだった。彼女には金蔵の才能は、全くと言っていいほど受け継がれなかった。だがそれ故、兄弟の中で誰よりも優しい。他者との競争や争いとは無縁の子だ。多分、楼座は将来良い母親になるに違いない。
 では、自分はどうか? しばらくその場で考えた後、自虐的に笑う。自分は、一体どんな長所があるのか? 誰よりも努力したわけでもなく、誰よりも才能があるわけでもなく、誰よりも人を大切にしてきたわけでもない。
 ただ二十数年間、父の模倣をしてきただけだ。 自分は、一体何がしたいのだろうか? 六軒島次期当主という肩書を誇りに思いながらも、時折それが重荷に感じられる。
 兄弟たちの前では、それを悟られまいと尊大に振舞っているものの、一人の時はどうしても自らのコンプレックスから逃れることはできなかった。
 ふう、っと蔵臼はため息をつく。六軒島を離れてまだ一日も経っていないのに、ひどく疲れている。普段は陰気な島だと不満を漏らしているが、やはり生まれ育った島のほうが居心地が良い。少なくとも、欲望渦巻く商談の最前線よりはずっと気が楽だった。
 商談の場から離れ落ち着くと、先程金蔵に殴られた頬が痛むのを感じた。蔵臼は痛む頬を撫で、ふと昨日のことを思い出した。

(そういえば、昨日も彼女に殴られたな……)

 昨日は散々だった。初めて、我が妻を家に迎えたのだが、最初の夜にいきなり平手打ちを喰らうとは……。
 蔵臼にとって、夏妃は初めて思い通りにならない女だった。女なんて、自分が何もしなくても、向こうの方から寄って来た。彼女たちは自分の言う事は何でも聞いたし、思い通りにならないことなんてなかった。
 それなのに、夏妃はいきなり自分に平手打ちを喰らわせたのだ。父に殴られるのは慣れたものだが、女に殴られるのは初めてだった。そんなことでイチイチ腹を立てるのも男らしくないが、気にならないと言えば嘘になる。
 大体、何故自分が殴られなければならないのか? 自分なりに、彼女には気を遣ったつもりだった。確かに最初は甘く見られないよう、高圧的だったかもしれないが、冬花に注意にされてからは夏妃に気を配っていた。嫁いできたばかりで疲れているだろうから、自分も最初の夜はそんなつもりはなかった。
 しかし、誘って来たのは彼女の方だったのだ。にも関わらず、いきなり平手打ちを喰らい、蔵臼は面食らった。その後、怒鳴ったのは悪かったとは思っているが、その程度の覚悟なら、最初から誘わなければいいものを……。
 自分とて、納得して結婚したわけではない。自分の知らぬ間に、金蔵が勝手に縁談を持ってきて、一度も会うことなく結婚が決まったのだ。それでも、人生の伴侶として彼女と共に歩んで行こうと思っていたのだが……、昨夜のことで、彼女と一緒に生活できるのか蔵臼は疑問に感じ始めていた。残ったコーヒーを飲みほし、彼はため息をつく。
 何故、女とはああも、面倒なのか? 正直、彼には夏妃が何を考えているのか分からなかった。
 蔵臼は紙コップをクシャリと潰すと、傍にあるくず入れに投げ入れる。あまりのんびりはしていられない。すぐに商談の時間になる。彼はベンチから立ち上がると、ビルへと向かう。しかし、その途中で足を止めた。
 彼女が何を考えているか、分からない。それは事実だ。だが、しかし―――。













『ううっ……どうして………どうして、こんな所に……連れてこられないと………いけないんですか? こんな、結婚を……させられないと……いけないんですか……………?』





 涙を流す彼女の顔が、頭から離れなかった…………。
















 部屋のテラスに夏妃は立っていた。そこは、屋敷でもっとも眺めの良い場所。ここからは、右代宮家が誇る、美しい薔薇庭園を一望することができた。昨日、夏妃が感嘆の声を上げた薔薇の数々は、今日も美しく咲き誇っている。しかし、今夏妃の目に映っているのは薔薇庭園ではなかった。
 夏妃の視線の先、それは薔薇庭園も六軒島も抜けて、遥か水平線まで広がっている、青い海だった。
「この先に……、蔵臼さんがいる」

 ―――私は、あの人のことが好きではない。他人に指摘され、私のご機嫌を取る様な男だ―――

 それが、夏妃が蔵臼に抱く正直な気持ち。しかし、決してそれだけではないのも確かだった……。










 蔵臼は歩みを止め、一人考える。

 ―――彼女が何を考えているか分からない―――

 それが、蔵臼が夏妃に抱く正直な気持ち。しかし、それだけが全てではなかった……。





 夏妃は思う。
 蔵臼は思う。









『何故、彼が気になるのだろう?』
『何故、彼女が気になるのだろう?』










 考えた所で、答えは返って来ない。
 しかし、そう考えることは、二人にとって決して嫌な気分ではなかった。





<つづく>



2010.01.17 Sun l うみねこ l コメント (0) トラックバック (0) l top

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