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こんにちは、六軒島の花嫁第15話が完成しました。
今回も担当は豚骨ショウガさんです。それでは始まります。










「蔵臼さん……そろそろ、休憩にしませんか?」
「ん? 冬花か……今何時だ?」
「―――もう夕方の4時です。
蔵臼さんったら、一度ボクシングの練習を始めたら他のことなんて全然見えなくなるんですね! 私、もう5分以上此処にいるのに、まるで気付いてくださらないんですから!」

少しだけ、頬を膨らませて。
口元を、真一文字に結んで。
でも、ばれている。聡明なこの人には、完全にばれている。
私の目が笑っていることを。私が、ちっとも怒ってなんかいないことを。

「ああ、悪かったな。シャドウボクシングを始めると、俺何も聞こえなくなっちまうから。
そろそろ休憩にするか……よっと」

ばふん。

「きゃ……! いきなり何投げてるんですか! 
もう、私まで汗くさくなっちゃうじゃないですかぁ………」
「冬花もお子様だなァ? 男の汗の魅力に気付かないとは」
「いや、蔵臼さん私より年下なんですけど。男の子なんですけど」

ぶつぶつと文句を垂れながら、自分の顔面に直撃して地面に落ちた蔵臼のシャツを拾い上げる冬花。手に取った瞬間、ぐっしょりと汗に濡れた感触に一瞬顔をしかめたが……蔵臼の言う「男の汗の魅力が分からないやつ」と思われるのも癪だったのか、澄まし顔で替えのシャツを手渡す。それすらお見通しだったのだろう、真新しい綿のシャツに袖を通しながらにたにたと笑いを堪える蔵臼の表情は年相応に、いや、年齢よりも幼く見えた。
最近、冬花にだけ見せてくれるようになった笑顔。
彼女の大好きな、その笑顔。
すっかり毒気を抜かれたのか、冬花もまた彼女本来の朗らかな笑みをたたえながら、水筒の水を蔵臼に手渡すのだった。彼女の予想通り、一気に飲み干す蔵臼。おかわりを要求する彼の笑顔は、今度は子供っぽさよりも精悍さを感じさせる。万華鏡のようにころころと表情を変える蔵臼のことが、冬花にとっては好ましかった。
そしてふたり並んで、草むらに腰を下ろす。
まだ全身から滴り落ちている汗をタオルで何度も拭いながら、何度か深呼吸を繰り返す蔵臼。その仕草をくすくすと笑いながら、冬花はしみじみと口にする。

「それにしても……本当に、蔵臼さんはボクシングがお好きなのですね。時間があれば此処に来て、走ったりなわとびをしたり、その……シャドウボクシングですか? 同じ練習ばかりで、飽きたりしないんですか?」
「ん? 別に好きでやっているわけじゃないって前にも言っただろ? 単なる体力づくりだって。飽きるとかそういう問題じゃないから。
右代宮家の男は、頭だけ良くたって駄目だ。少々の無茶にもへこたれないくらいの、強い体もないとな。ただの、体力づくり。別にボクシングが好きとか、そんなんじゃないんだって」
「はいはい、そうでしたね。そういうことにしておきます」
「何だよ冬花ァ~? やけに引っかかる言い方だな」
「いえいえ、そんなことはありませんよ~?」

蔵臼の怪訝な視線をかいくぐるように、冬花がぱんぱんと土を払いながら立ち上がる。彼女とて、時間が有り余っているわけではないのだ。すっかり仕事にも慣れ、源次からも熊沢からも「一人前」として扱われ始めた彼女の仕事は、少しでも気を抜くと一気に溜まってしまうほどに多い。忙しい仕事の合間を縫って、此処に差し入れを持ってきているのだ。そのことに思い当った蔵臼は、それまでの無邪気な少年ではなく、右代宮家の人間として感謝の言葉を向けた。
立ち上がり、荷物を片づけながら、ぼそりぼそりと。
僅かに、照れをその横顔に滲ませながら。

「―――悪いな、冬花。何時も、着替えとか水とか持ってきてくれて。
お前だっていろいろ忙しいんだから、無理しなくてもいいんだぞ?」
「はい。無理はしていませんから大丈夫ですよ、蔵臼さん。私が勝手に、この場所が気に入っているだけですから。
海が見渡せて、しかもたくさんの緑に囲まれた、この場所が」
「……そっか。お前も此処、気に入ってくれたのか」
「はい、だから心配は無用です」

それきり、口を閉ざすふたり。
さらさらと流れてゆく爽やかな風。
まさに、今の彼らの心境そのものだった。
蔵臼の額に浮かんでいた無数の汗の滴も、見る間に乾いてゆく。あまりに心地よかったからか、そのまま地面に背中を預けて大の字に寝転がってしまう。そのままにしておけば、数分で寝息を立て始めることだろう。これからも仕事が残っている冬花はさすがに使用人服を汚すようなことはできなかったが、くすくすと口元に笑みをたたえたまま、目を閉じた蔵臼の穏やかな寝顔を見下ろした。
そして、視線を少しだけ動かせる。
蔵臼の肩に掛けられたままの、古ぼけたボクシンググローブ。
何度も縫い直された跡が見える、色褪せたボクシンググローブ。 
初めて見た時には、蔵臼は何故こんな古い道具を使い続けているのだろうと疑問に感じた。普段の彼が身につけている物、実際に手にする物はすべて新品同様に美しく――実際、ほとんど使い捨てのように扱われているのだろう――ピカピカに磨かれているのだが……ボクシンググローブに限らず、この空き地にある器具の数々はもう何年も使い古されていて、隠しようがないほどにくたびれていた。
しかし、今の冬花は知っている。
蔵臼にとって此処にある道具は、かけがえのない大切なものばかりだということを。
……1か月前のことを思い出す。
初めて彼の本心に触れ、友達になろうと固い握手を交わした、あの夜の出来事。
蔵臼は、泣いていた。
変わってしまった父を、父を変えてしまった戦争を憎みながら、それでも元の父に戻ってほしいと、体中の思いを振り絞って、叫んだ。
今や彼の肩に掛けられたボクシンググローブだけが、かつての父親と蔵臼を結ぶ唯一の絆なのだ。戦争に行く前の、寡黙だが優しかった父が買ってくれた、蔵臼にとって黄金の山と引き換えにしても手放すことのできない宝物なのだ。冬花はあの夜、右代宮家屋敷の娯楽室で、彼の苦しみと願いの一端を垣間見ることができた。あの出来事がなかったら、自分と蔵臼は今でもただの「主人と使用人」の関係に過ぎなかっただろう。こうして親しく言葉を交わすことも秘密を共有することもなく、関わり合うことのない適度な距離感を抱えたまま日々を過ごしていただろう。そう考えると、こうして蔵臼と仲良く接することができる今がたまらなく大切な時間に思える。
そして彼女は、そのボクシンググローブを優しく撫でる。蔵臼の宝物を、壊れないように、そっと、そっと。
―――その仕草が合図だったかのように、蔵臼はむくりと起き上がった。

「……っと。そろそろ親父が帰ってくる時間だな。今日はこのあたりにしとくか。
悪い冬花、ちょっと片付けを手伝ってくれないか?」
「はい、蔵臼さん。私もそろそろお勤めに戻らないといけないって思っていたところでした」

ぱんぱんと埃を払いながら、蔵臼が立ち上がる。周囲のトレーニング器具を、要領の良い手つきで近くの倉庫に運びこんでゆく。片付けを手伝うのが初めてではない冬花もまた手慣れた様子で小さな器具を抱えてその後を追うのだった。

「ふう……これでよし、っと。今日もいい汗かいたな。それじゃあ、そろそろ学生の本分に取り掛かるとしますか。今日はそこそこ宿題も多いしな」
「そうですか。私の方も、今日はお仕事がてんこもりです。お互い大変ですが頑張りましょうね!」
「ああ、そうだな。
あ、冬花……もう言うまでもないことだけど、このことは――――――」

蔵臼の声が、少しだけ低くなる。冬花も、少しだけ畏まって頷く。
こうして冬花がこの秘密のトレーニング場に訪れるようになってから、帰り際に必ず交わす約束。
もちろん、冬花は約束を破るつもりは毛頭ない。素顔の蔵臼と立場を越えて……「友達」として接することのできる場所を、時間を、自分の手で奪うようなことは、決して。
しかし、既に形骸化してしまった毎回の「約束」に、冬花は全力で頷く。
―――冬花は好きなのだ。大好きなのだ。



「はい、もちろん。このことは、蔵臼さんと私、ふたりだけの秘密です」
「ああ………その通りだ。ありがとう、冬花」



自分が毎回同じ返答を返すたびに、彼が浮かべる笑顔が。
蔵臼と同じ秘密を持つ喜びを再確認できる、この瞬間が。
蔵臼と自分は、ただの主人と使用人ではないのだと思える、この時間が。


「そんじゃ、お屋敷に帰りますか。成金趣味でセンスのない、ただデカいだけのお屋敷に」
「はい、帰りましょう。蔵臼さんと………私の、家に」
「そうだな。俺と……俺の大切な友達が住む、ただデカいだけのお屋敷に」


夕焼け空が、六軒島を優しく包み込み始める。
先に歩き始めた蔵臼から三歩後を、冬花は歩き始める。
そして蔵臼の言葉がゆっくりと、彼女の胸に染み込み始める。
そして彼女の胸は、少しだけ痛み始める。
ちくちくと、冬花の胸を刺し始める。
そして冬花は、俯き始める。
始める。始める。始める……………。
1か月前は、こんな痛みは知らなかった。
三週間前は、こんな痛みは知らなかった。
二週間前から、少しだけ痛み始めた。
一週間前には、もう少しだけ痛み始めた。
今日は、今までよりも少しだけ痛かった。
何だろう、この痛みは。
どうして、蔵臼さんといる時にだけ、私の胸は痛むんだろう。
どうして、蔵臼さんのあの言葉にだけ、私の胸は痛むんだろう。



夕焼け空に視線を向けても、答えはなかった。
蔵臼の背中は何時の間にか小さくなっていたから、冬花は慌ててその後を追う。








どうして、蔵臼さんが「友達」と言うたびに、私の胸は痛むんだろう。










六軒島の花嫁

第十五話「追憶の白(後編)」











「あ、あの………右代宮くんに借りていた本を、その……返しにきたんですけど………」
「―――それだけのご用件で? 学校で返せばよろしいのではないですか? 
わざわざ休みの日に、定期船に乗ってまでこの島までいらっしゃらなくても」
「あ、そうなんですけど……」

それきり、目の前の少女は黙り込んでしまう。
忙しなく両足を動かしながら、ちらちらと冬花の顔色を窺う。これではまるで自分が悪者みたいではないかと、冬花は溜め息をつきながらもう一度この少女を見下ろした………少女は小柄で、どうやらかなり内気な性格らしい。ファッションに疎い冬花にすら分かるほどに高価そうなワンピースを身に纏っていて、一見して「いいとこのお嬢様」然としているが、そういう少年少女にありがちな――蔵臼にもそういった一面があることは否定できない――傲慢さは欠片もなく、ただ自分の用件を告げただけで後はじっとこの場に……右代宮邸の玄関前で佇んでいる。このまま冷たくあしらい続ければ、じきに泣き出してしまうだろう。しかし、ここは冬花も譲れない。右代宮家の使用人として、見知らぬ相手を軽率に通すことなどできない。源次から厳しく指導されてきたのだ。「約束のない相手を決してお屋敷に通すな。判断に迷うなら私を呼びなさい」と。しかし目の前の少女はどうやら、ただの蔵臼のクラスメイトのようだ。ならば源次に報告するまでもないと、冬花は自身の判断で行動したのだった。
玄関前でこの子を屋敷に入れまいと立ち塞がっている自分はきっと悪者にしか見えないんでしょうね、ともう一度息を吐いたが……わだかまりを捨て去るようにぶんぶんと首を振ると、まるで死刑判決を宣告する裁判官のように事実を投げつけた。取ってつけた謝罪の言葉とともに。

「申し訳ありません。先ほども申しましたが、事前のお約束のない方をこの屋敷にお通しするわけにはまいりません。これは右代宮家当主である右代宮金蔵さまから厳しく仰せつかっておりますことですし、蔵臼さんにつきましてもそれは同様でございます。それに、今は蔵臼さんは屋敷にはおりません。散歩に出かけております。その本につきましては、私からお返ししておきますので。
ですから、本日のところは―――」

お引き取りください、という言葉まではさすがに口にしなかった。
深々と一礼した後、目の前の少女が肩を落として本を差し出す姿を想像しながら顔を上げた冬花だったが……少女の反応は冬花の予想を少々裏切るものだった。

「蔵臼、さん…………?」

少女の表情から、怯えの色は消えていた。
代わりに浮かんだのは、怪訝な視線。何か言いたげな、唇の動き。
使用人風情が、さん付けなんておかしくないですか。
冬花には、彼女の心の声が聞こえるようだった。
数秒前までおどおどと冬花の言葉に怯えていた少女の姿は、其処にはもうなかった。分不相応な口の利き方をする使用人への嘲りと……そして、蔵臼をさん付けで呼ぶ馴れ馴れしい女への、あからさまな敵意。
それらが入り混じった視線をたっぷりと味わってから、冬花は高らかに告げる。
優越感と憐れみの視線を返しながら、しかし口調は淡々と、当たり前のことのように。


「ああ、私は蔵臼さんの親しい友人でもありますから。当然、蔵臼さんからのお許しを得ております。友人を『さま』なんて呼ぶのはおかしいでしょう?」
「……………………!!」


―――勝った。
何故勝ったという思いを抱くのか分からないまま、冬花は呆気にとられたままの少女にもう一度頭を下げた。そして、先刻と同じ言葉を告げる。
今度は、しっかりと最後まで。
万が一にも相手が……この間抜け面を晒したままの馬鹿女が聞き違えることないように、一字一句、噛み締めるように。

「蔵臼さんは今、此処にはおりません。本でしたら、私からお返ししておきますので。
ですから、今日のところはお引き取りください
「あ………………はい」

のろのろと差し出された本をひったくるように奪うと、冬花はくるりと踵を返して屋敷の中へと姿を消した。一度だけ、さりげなく振り返る……肩を落とした少女が、とぼとぼと歩み去る後ろ姿が見えた。
思わずスキップしそうになる衝動を、辛うじて堪える。大声で笑い出したいという欲求を、何とか抑え込む。ここ最近仕事で忙しかった鬱憤も晴らせて一石二鳥だわと、それまでの疲れまで一気に吹き飛ぶような爽快感を堪能しながら、冬花は厨房で紅茶を淹れた。2人分のカップと湯気を上げたポットをトレイに乗せる。
自分とあの人の紅茶。
大好きな、あの人のための紅茶。
そして冬花は、蔵臼の部屋をノックする。
音に表情があるならば、その軽快なノック音はさぞ幸せな笑顔を浮かべていることだろう。
まるで今の彼女のように。

「――ん? 冬花か。何だか上機嫌だなァ。何かいいことでもあったのか?」
「いえいえ、特に何もないですよ? ……お勉強ははかどっていますか? そろそろ休憩にしませんか?」
「ああ、紅茶を持ってきてくれたのか。そいつは用意がいいな! 俺もそろそろ休もうかと思っていたところなんだ。入れよ」
「はい、お邪魔します」

もう何度目になるか分からない、蔵臼の部屋。冬花は、なんの躊躇なく踏み入る。
最初の頃は高価な調度品に囲まれると、自分などがこの部屋にいていいのだろうかと随分と居心地の悪い思いをしたものだが……訪れる頻度が上がる度に、そういった遠慮や戸惑いは消えていった。
蔵臼から聞かされる楽しい話に何度も相槌を打ち、時にはかつて父親が凝っていたという暗号の本にふたり揃って挑戦し、時にはレコードから流れるクラシックの調べにゆったりと耳を傾ける。こうして蔵臼の部屋で過ごすひと時は、「秘密のトレーニング場」で蔵臼が躍動するのを見守るのと同じくらい、冬花にとっては楽しく幸せな時間となっていた。そして今日も楽しい時間がこれから過ごせるのだと思うと、冬花の胸は知らぬ間に踊り始めるのだった。

「ん? その本は確か………」
「ああ、これですか? 先ほどクラスメイトの方が、借りていた本を返したいと来られたんです。蔵臼さんのお勉強の邪魔になってはいけないと思いまして、適当に追い返しておきました」
「……そっか。悪かったな、冬花。
あいつ、けっこうしつこかったんじゃないか? やたらと俺に絡んできて仲良くなろうとするんだけど、もう『右代宮』の名前に釣られているのが見え見えでさ、あんまり関わりたくなかったんだ。その本だって、どうしてもっていうから仕方なく貸したんだ」
「だと思いました。あまり人の悪口は言いたくありませんけど……あの人、一目見た時に蔵臼さんのお友達にはふさわしくない人だって思いましたもの」

そこまで言ってから、冬花は紅茶を口に含む。
今日初めて会ったばかりの人間を悪く言うことは決して誉められたことでないとは分かっていたが、蔵臼に誉められたという事実は、そんなちっぽけな倫理観など吹き飛ばしてしまうほどに甘美だった。
あの人が笑いかけてくれた。
あの人のお役に立てた。
その事実だけで、冬花の心は歓びと幸福感でいっぱいに満たされる。
何も聞こえなくなる。蔵臼の声以外は、何も。
何も見えなくなる。蔵臼の姿以外は、何も。
だから。



「冬花って、俺の気持ちをよく分かってくれてるよな。さすが、俺の一番の友達だ」



しみじみと蔵臼が呟いたその言葉は。

歓びと幸福感に満たされた冬花の心を。

木っ端微塵に、破壊した。











こん、こん。
音に表情があるならば、その硬いノック音はさぞ厳しく重苦しい表情を浮かべていることだろう。
まるで今の彼女のように。
―――今日、お勤めが終わったら私の部屋に来なさい。少し話がある。
今朝、お勤めの内容を確認していた時に呂ノ上源次から掛けられた言葉。何時になく厳しい表情の源次に、普段は軽やかに彼と接する冬花も、しばらく時間を置いてから頷いた。
きっと「少し」というのは嘘。大したことのない話なら、朝の内に済ませてしまえばいい筈。そうしなかったということは、楽しく愉快な話ではないということ。否、源次が改まって「話」という時は、大抵が重大な話なのだ。おそらく、私を叱責する内容なのだろう。短くない付き合いでそのことを知っている冬花は、そう思い当たって憂鬱な気分に陥っていく自分自身を自覚せざるを得なかった。そして案の定、今日のお勤めの出来は惨憺たるものだった。
……やっと、この前のことを整理できたと思ったのに。
蔵臼の部屋で、冬花を幸せの絶頂から奈落の底に突き落とした、あの一言。あの出来事を、一週間かけてやっと整理できたのに。そう思うと、源次の部屋のドアをノックするという行為にすら、彼女は多大なエネルギーを必要とするのだった。

「冬花か………入りなさい」
「はい……失礼します」

目を閉じたまま、テーブルについている源次。その表情からは、まだ感情は読み取れない。源次を比較的よく知る冬花ですら、そのポーカーフェイスから彼の気持ちを推し量ることはできなかった。時に頼もしいと思える源次の無表情ぶりだったが、今この時はこの上なく恐ろしく、まるで無力な獲物を蛇が品定めするような……そんな場面を思い起こさせた。向き合って席に着いた冬花も、何時源次が口を開くのかをおどおどと見上げることしかできない。
冬花が席に着いてから、たっぷり1分は経過した頃。
源次が、ようやく口を開いた。冬花の予想どおり、彼女を責めるために。

「……最近、お勤めに身が入っていないようだ。
お館さまは厳しいお方。お屋敷の中でも、厳しく目を光らせておいでだ。今の状態が続くなら、私としてもこのお屋敷の使用人としてお前が不適当だと判断せざるを得ない。
ここまで言えば……分かるな?」
「申し訳ありませんでした、源次さま。
ここの所、使用人の仕事に慣れ過ぎて、最初の頃の緊張感を失くしていたようです。明日からはまたお勤めに精いっぱい励みますので……明日も早いので、失礼します」

それだけを答えて、冬花は席を立つ。
すたすたと、源次の脇を歩き、ドアノブに手を掛ける。
―――冬花の背中に、源次はもう一度言葉を投げかけた。彼女の背中を見ることなく、席に着いた姿勢のまま。


「………その言葉は、蔵臼さまともこれ以上交流を持たないという意味だと理解してよいのだな?」
「………仰る意味が理解しかねますが」


冬花が振り向き、再び席に着く。
そして、源次を睨みつけた。
自分を救い、この島に連れて来てくれた恩人を。
いくら感謝の言葉を重ねても足りないほどの恩を施してくれた、大切な人を。
部屋中に響くほどに、ぎりぎりと歯軋りしながら。
相手を呪い殺せるほどに、憎しみすらこもった目で、冬花は睨みつけた。
―――源次は、それを何処吹く風と受け流す。

「……単に友人としての交流ならば、口を挟むまいと思っていた。蔵臼さまも難しいお年頃、しかも『右代宮』の名前を背負っておられる。気を許せる友人はこれまでいなかったと聞く。
お前が……年齢の近いお前が、蔵臼さまの友人としてあの方を支えるならば、それは喜ばしいとは思っていた。友人として接するならば、な」
「ええ、蔵臼さんは私を友人だと言ってくれました。
この前などは、『俺の一番の友達だ』と、ありがたいお言葉を。それの何処に問題が? 源次さまのご希望通りではないですか」

源次は、見逃さなかった。
『友達』という単語。
冬花が口にした瞬間、眉を寄せたことを。一瞬だけ、唇を噛んだことを。


「お前にとって蔵臼さまは……友人ではないのではないか?」
「…………………………」


躊躇する。
数秒の間、口ごもる。言い訳を探そうと、視線を彷徨わせる。
しかし、薄く自嘲の笑みを浮かべて……いや、満面の笑みを浮かべて、冬花は源次を見上げた。それは源次が初めて見る、冬花の女としての表情だった。


「はい、仰るとおりです。私は蔵臼さんをお慕いしております。
それが何か? 何の問題が? 源次さまに何の関係が?」
「…………分かっている筈だ、冬花。何が問題か」




「五月蠅い!!」




冬花の絶叫が、この狭い部屋の中を暴れ回った。蹂躙した。
それでも、源次は身じろぎひとつしなかった。ただ、冬花の目をじっと射抜くだけ。


「問題!? 問題ってなんですか!? 
ひとがひとを好きになることの何が問題だって言うんですか!! 
私はこの島に来て、蔵臼さんと出会って、蔵臼さんのことを好きになったんです!! 誰にも強制されることもなく、私自身の意思で!! 
14のガキが何一丁前のこと言ってるんだって思いますよね!? 助けてもらった恩も忘れて何生意気言ってやがるんだって思ってますよね!? いいですよ、笑っていいですよ!! 殴っていいですよ!! 
でも、私は真剣なんです! 蔵臼さんのことを心から想っているんです! この気持ち、もうどうしようもないんです!! 苦しいです!! でも自分の気持ちに気付いて嬉しいんです!! それの何が悪いって言うんですか!! 問題だって………言うんですかああああああああああああああああああああああっ!!」


髪を振り乱して、冬花は絶叫した。
涙と涎と鼻水を垂らしながら、源次に縋るように。
普段の理知的な瞳は、真っ赤に燃え盛っていた。怒りと、悲しみで。
………何時から自分は、蔵臼のことを好きになったのだろう。それが禁じられた想いであることなど、源次に言われるまでもなく理解していたというのに。想いが成就し蔵臼のたったひとりの女になれるなど、万に一つも有り得ないということを、彼女もよく理解していたというのに。
蔵臼さんに取り入ろうとする女を追い払った時か?
娯楽室で「カノン」を聴かせてもらった時か?
彼の秘密……ボクシングのトレーニングを目撃した時か?
いや、違う。その時には、私はもう蔵臼さんを好きになっていた。友達なんて言葉で誤魔化していたけれど、あの時はもう、私は蔵臼さんから目を離せなくなっていた。あの人の言葉に、視線に……私はがんじがらめに縛られていた。
きっと、初めて出会った時から。あの繊細で傷つきやすい横顔を見た時から。頬を押さえて足早に立ち去ったあの時から、私の心には蔵臼さんが住みついていた。使用人として接しなければいけない人に、私は一目惚れした。愚かにも。
あれから何度、私は夢見たことだろう。
ウェディングドレスに包まれ、蔵臼さんの口づけを受ける日を。皆から祝福され、六軒島で子供たち……そして孫にも囲まれ、蔵臼さんと穏やかな日々を過ごす自分を。子供の浅はかな夢だと笑えばいい。身の程知らずの愚かな少女だと蔑むがいい。それでも私は、確かに夢見たのだ。使用人の分際で、決して叶うことのない夢を。

「………蔵臼さまは、お前のことを友人以上に思うことは決してない。そして、成人されるまで特別な相手を作ることはない。
お館さまが、蔵臼さまに幾度となく言い聞かせておられたからな。『女に溺れるな。遊びなら構わんが、決して本気になるな。結婚相手は、この私が選ぶ。右代宮家に相応しい、右代宮家の役に立つ家の女を』と。私もその命に従うのみ。
蔵臼さまはひとりの少年である以前に、右代宮家次期後継者であられる。スキャンダルの種は、徹底的に潰さねばならん。使用人と恋仲になるという噂が立つだけでも、右代宮家にとってはダメージになりかねないのだ。お前の出る幕などない。
それでもお前が蔵臼さまに近付こうとするなら……私が力づくでも排除する」

排除する。
大人の男が14歳の少女に向けるには、あまりに不釣り合いな言葉。しかし源次は、冗談だと表情を崩すことも言い過ぎたと謝罪の言葉を口にすることもしなかった。じいっと、まだ涙の乾き切っていない冬花の両目を見据えるだけ。
しかし冬花は、その言葉に怒りも恐れも抱かなかった。
正確に表現するならば……もう源次の言葉などは彼女の耳には届いていなかった。ふらふらと立ち上がり、危なっかしい足取りでこの部屋を後にしようとする。その目は、明らかに焦点を失っていた。
源次も今度は、彼女の背中に声を掛けることはなかった。がちゃりとドアが閉められる音を聞き届けようと、椅子に座った姿勢のままで意識だけを背後に集中させる。
……一瞬、その音が遅れた。
何故なら、ドアノブに手をかけたままの彼女が……ぽつりと言葉を紡いだから。
先刻の絶叫で魂をすり減らしてしまったかのように、老人のようなしわがれた声で、ぽつりと。


「源次さまは………本気で誰かを好きになったことが……………ありますか?」
「―――――――――」


返事を待たずに、ドアは閉じられた。
今の源次と冬花の心の距離を表すように、冷え冷えとした空気が源次一人きりの部屋を満たし始めていった。
……不意に、再び打ち鳴らされるノックの音。

「………どうぞ」

源次にしては珍しく、やや上ずった声。
彼自身も、先ほどの冬花とのやりとりで十分に疲弊していたのだ。彼は決して機械でも冷血な人間でもない。ただ感情を隠すことに長けているだけの、何処にでもいる普通の男。狼狽することもあれば、傷つくことだってある。先刻の冬花の豹変ぶり、そして涙は源次に大きな衝撃を与えていたのだ。きっとそんな彼の素顔を知る者は、この島にも数人しかいないだろう。そして今扉をノックした訪問者は、そんな数少ない人間のひとりだった。

「源次さん………いかがでしたか?」
「熊沢か………予想通りだったな。
冬花は、蔵臼さまのことを特別な目で見ている。不幸な結果にしかならないことを十分に理解していながら、な」
「そうですか……………」

今夜2人目の訪問者―――熊沢チヨは、予想どおりの源次の言葉にがっくりと肩を落とした。
源次が冬花の父親代わりなら、熊沢はまさしく彼女の「母親」代わりだった。冬花がこの島に来てからまだ2カ月足らずしか経ってはいないが、厳しい源次とは対照的に何時も優しく使用人としての手ほどきをしてくれる熊沢は、冬花にとっては源次と同じくらい尊敬する大切な人となっていた。そして熊沢もまた、実の娘同然に冬花を可愛がった。戦争で身寄りを亡くしたという少女の生い立ちに心から同情し、使用人の先輩後輩という枠を超えて交流を深めていたのだ。
だから、分かった。
源次より先に、冬花の異変に、熊沢が気付いた。ここ最近の、冬花の異変に。
お勤めの内容が雑になった。
少し目を離すと姿を消すことが多くなった。
そして……そのほとんどの場合、彼女は蔵臼と行動を共にしていた。
その事実だけで、熊沢は見抜いたのだ。同じ女である熊沢が、源次より先に。
冬花の変調の理由、そして彼女の気持ち、そしてその気持ちが行きつく先には悲しい結末しか待ち受けていないということを。だから源次にその旨を伝え、事態が手遅れになる前に手を打ってもらおうとしたのだ。しかし―――

「………どうやら、手遅れだったようですねぇ」
「ああ…………」

残念そうに呟く熊沢に、源次も短く相槌を打った。冬花の激昂ぶりを目の当たりにした源次はもちろんのこと、扉の向こうで聞き耳を立てていた熊沢にも冬花の強い気持ちは十分すぎるほどに伝わってきた。
そして、彼らは知っている。冬花という少女のひたむきさを。真っ直ぐさを。

「今となっては………少しでも冬花の心の傷が小さく済むように、祈るだけだな」
「そうですねぇ……蔵臼さまがうまく冬花さんを振ってくださればいいんですけど」
「無理を言うな。あの方は……まだ13歳なのだぞ」
「そうでしたねぇ。何時もしっかりされている蔵臼さまと冬花さんを見ていると、まだほんの子供だということをつい忘れてしまいそうになります。冬花さんだって、まだ14歳なんですものね」
「ああ。ふたりとも、まだ子供なのだ。もし、蔵臼さまが――――――」

もし、蔵臼さまが普通の少年だったなら。
家柄や格に縛られることのない、何処にでもいる普通の少年だったなら。
……考えてもまったく意味のないことを、今の源次は珍しくも夢想していた。そして熊沢も、まったく同じことを想像していたのだろう。深い息を吐いてから、冬花が飛び出して行った方向に視線を送りながら。

「あの子たちには……幸せになってほしいんですけどねぇ」
「ああ………その通りだな」

源次と熊沢は、静かに頷いた。
その表情は使用人ではなく、子供のことを心配する両親、そのものだった。











もう、涙も出なかった。
力なくその場に崩れ落ちる。
再び立ち上がる気力も、今の彼女には僅かにも残されてはいなかった。
―――源次の部屋を飛び出して、感情の赴くままに駆け出した冬花。
夜の六軒島へ飛び出して。
泣いて。喚いて。罵って。走って。走って。走って。
そして彼女は、此処に戻って来た。
違う。
彼女の戻る場所は、戻れる場所は………もう、此処しか残されていないのだ。
右代宮邸、玄関。
彼女は数十分前に飛び出して行ったはずのこの場所に、また戻って来た。
この屋敷だけが、彼女の世界だから。この屋敷だけが、彼女を迎えてくれるから。世界中で、彼女の居場所はもう此処にしかないから。
だから、冬花は此処に戻ってきた。戻ってくることしか、できなかった。

「あ、あははははははははは………ははははははははははははははははは………」

ひゅうひゅうと、喉の奥から息とともに漏らす笑い声。
冬花は、彼女自身を笑った。嘲った。侮辱した。
決して叶うはずのない想いに有頂天になり、馴れ馴れしい口を利いて蔵臼を困らせた阿呆な自分を。
身の程も弁えず、仕えるべき相手に思慕の念を抱いてしまった間抜けな自分を。
『友達になってくれ』その一言に舞い上がり、右代宮家後継者たる蔵臼と対等の関係になれたなどと勘違いした、救い難いほどに不遜で身勝手な自分を。
己の為すべきことも忘れ、恋などという余計なものにうつつを抜かし、あまつさえ源次の忠告すら踏みにじった恩知らずの自分を。
冬花は、殺したかった。
2か月前の……この島に来る前の決意とやる気に満ちていた頃の自分に、手をついて謝りたかった。泣いて詫びたかった。時計の針を戻したい。あの時に戻ってやり直したい。人生の中で誰もが幾度となく抱く願い。決して叶わないと知りながら、人はそれでも願わずにはいられない。時間の針を元に戻してほしいと。冬花は生まれて初めて、痛切にそう願った。あの人と出会う前に、どうか戻してほしいと。こんなにも悲しい思いに打ちひしがれるのなら。こんなにもあの少年に恋焦がれるのなら。
あの時、蔵臼さんと友達になんてならなければよかった。あの時、蔵臼さんのピアノなんて聴かなければよかった。あの時、蔵臼さんのトレーニングを覗き見なんてしなければよかった。あの時、蔵臼さんと出会わなければよかった。
あの時。あの時。あの時………!!

「う……うあああああああああっ………!」

尽きることのない後悔の念が、細い体を貫いてゆく。一片の容赦もなく、冬花の心を細切れに切り刻んでゆく。
しかしどれだけ後悔しても、彼女の願いは叶えられることはないのだ。時間を元に戻すことと同じように、人の感情をなかったことにすることもまた、不可能なことなのだから。
今の彼女にとっては、蔵臼への想いを断ち切ることなど、砂漠に散らばったビーズを見つけ出すことよりも困難な行為だった。たった2カ月足らずの時間であっても、一人の少女が一人の少年に恋焦がれるには十分すぎるほどに長い時間なのだ。
ぼんやりとした頭でも、いくらでも思い返すことができる。蔵臼と過ごした楽しい時間を。一緒の時を過ごす度に想いを募らせていった、輝かしい瞬間の数々を。それらが、冬花に語りかける。優しく囁き、彼女を導こうとする。このままでいいのか。源次の言う通り、右代宮家の都合のためにこの想いを諦めていいのか。諦められるのか。ぶつかればいい。想いを伝えたらいい。そうすれば、奇跡が起こるかもしれない。
………しかし、冬花は迷わなかった。

「………………………」

ぼやけていた目の焦点が、ゆっくりと戻ってゆく。
震えていた足は今、しっかりと地面を踏みしめている。
数秒前まで玄関横の壁に背中をもたれさせていた冬花は、今しっかりと二本の足で立ち、夜空にまたたく星たちをゆっくりと見渡していた。
源次や熊沢は、彼女がもう一つの選択をすると予期していた。己の感情のままに突っ走って、そしてどうしようもない現実と正面衝突するだろうと。容易には消し去り得ない傷を、彼女は抱えることになるのだろう、と。
しかし冬花は、源次たちが考えるよりも、ほんの少しだけ、大人だった。
………ほんの少しだけ大人で、ほんの少しだけ、臆病だった。


「…………なかったことに、しよう」


冬花は、口にした。まるでその言葉を口にすれば、この2カ月のことが綺麗さっぱり消え去ってくれるかのように。蔵臼への気持ちを、すっかり忘れ去ることができるかのように……彼女の口調は穏やかで、しかし、はっきりとしていた。
冬花は、決めたのだ。
時間を戻すことができないなら、この2カ月を「なかったことにしよう」と。
自分は使用人。
蔵臼は主人。右代宮家を継ぐ少年。
その関係に戻るだけ。当たり前の関係に戻るだけ。何も難しいことなどではない。友人になるなど、使用人の分際で許される筈がないのだから。そうしなければ、私はこの島にいられない。たったひとりでは生きてゆけないのだから、これでいいんだ。たった2カ月のこと。あっという間に元の関係に戻れる。蔵臼さん……いいえ、蔵臼さまだってきっと、かわいそうな身の上の私に同情してくれただけなのだろう。私のことなんて、すぐに興味を失くすに決まっている。ああ、全然悩むことなんてなかった。考えてみたら、すごく簡単。後で源次さまに謝っておかなくちゃ。あの時の私はどうかしていました、って。誠心誠意、お勤めに尽くしますので先ほどのご無礼をお許しください、って。どうかこの島に、このお屋敷にいさせてください、って。そうと決まれば、さっそく謝りに行かないと。何時までもこんな所にいたら、風邪をひいてしまう。明日もお勤めがあるんだから、身を入れて頑張ろう。恋だのなんだの余計なことを考える暇なんてないくらい、一生懸命に。それが当たり前。私は使用人なのだから。右代宮家の、蔵臼さまの……ただの使用人なのだから。





「いくじなし」

「………五月蠅い」


「よわむし」

「……五月蠅い」


「負け犬」

「…五月蠅い」


「死んじゃえ、いくじなし」

「五月蠅いって言ってるでしょう!!!!」





そう叫ぶと、冬花は屋敷に駆け込んだ。
今の囁き声が誰の口から発せられたのか、誰の心の声だったのか、考えたくもなかった。
それを認めてしまえば、きっと自分は壊れてしまうから。
今の自分が逃げているだけだと認めてしまえば、もう二度と、立ち上がれなくなる気がしたから。











「まったく……あいつ、一体どういうつもりなんだよ」

右代宮蔵臼は怒っていた。
感情を制御する術をまだ知らない13歳の少年は、全身から……そして声色からも不機嫌さを撒き散らすようにして屋敷内を歩き回る。昨日まで抱いていた戸惑いは消え去り、その代わりに今では苛立ちと怒りの感情だけが蔵臼を突き動かしていた。
何をしていても面白くない。何を考えていても愉快な気持ちになれない。あまりに苛々するので、今日は妹の絵羽にまた手をあげてしまった。神経を逆撫でする妹の泣き声に、つい二回、三回と手があがってしまう。源次に見咎められて引き離されなければ、自分は何時間でも妹に暴力をふるっていたことだろう。感情のままに、理性の欠片すら取り戻すことなく。
……ここ最近は、こんなことはなかったのに。毎日が、それなりに楽しかったのに。

「それなりに……じゃないよな」

不意に立ち止って呟いた蔵臼の表情は、先刻よりは大分冷静さを取り戻していた。その代わり、怒りではないもうひとつの感情が……今の彼の全身を縛り上げる。それは、寂しいという感情。
言いようのない寂しさがこみ上げてきたのだろう。蔵臼は力なく項垂れた後、先ほどまでとはまるで別人のような頼りない足取りで自分の部屋へと戻っていった。


―――それなりに、ではない。
ここ最近の蔵臼は、毎日が楽しかった。本当に楽しかったのだ。
母親の病状が快方に向かったからではない。残念ながら彼女は未だに本土の病院で、回復する見込みもなく療養生活を続けていた。月に数回六軒島に訪れる南條医師から厳しい現状を聞かされても、今の蔵臼はしっかりとその現実を受け止めることができるようになっていた。
父との関係が改善されたからでもない。彼の父は……右代宮金蔵は相変わらず蔵臼に冷淡で、時に容赦なく暴力を振るう。その日常は今までと何ら変わりはない。蔵臼の望みを嘲笑うように。しかし蔵臼はその度に傷つき落ち込むことはあっても、その感情を長く引きずらないだけのしなやかな精神を手に入れつつあった。気持ちの切り替えが早くなった、と言い換えてもいい。
それらの変化は勿論、彼自身が成長したという理由も大きいのだろう。しかし、その一番の要因とはなにかと問われれば、思い当たることはたった一つしかなかった。そして蔵臼自身もまた、そのことははっきりと自覚していた。

「冬花のやつ……また俺のことを避けてる。
この前とは違って、すごく冷たい感じ。俺、何かあいつを怒らせるようなことしたのかな……ちくしょう、何にも思い浮かばない」

がりがりと頭をかきむしりながら、蔵臼はベッドに倒れ込む。
本来であればこの時間は勉強に充てなければならない時間だったが、とてもそんな気になれなかった蔵臼は気分転換の散歩と称してぶらぶらと屋敷の内外を歩き回っていたのだ。当然、そこには「偶然に冬花と出会えないだろうか」という下心があったのは言うまでもない。しかし蔵臼の淡い期待に反し、冬花が蔵臼の前に姿を見せることはなかった。徹底的に姿を見せることを拒むように、蔵臼が彼女の姿を見かけることはなかった。ここ一週間以上の間、一度たりとも。
この島からいなくなったわけではない。彼女はこれまでと全く変わることなく、使用人としての仕事を忙しくこなしている。偶然にでも、出くわさないわけがないのだ。本来ならば。それでも会えないならば、理由はたったひとつしかなかった。
―――避けられているのだ。自分は、冬花に。徹底的に。疑う余地もなく。

「この前とは……全然違うんだよな」

ベッドに仰向けに寝転がり、天井を見上げながらもう一度呟く。
この前……かつて一度、冬花が蔵臼のことを避けていた時のこと。
あの時は、蔵臼自身怒りや寂しさよりも、好奇心の方が勝っていたように思う。少しは仲良くなれたはずの冬花が、何故自分を避けるのか。未知の生物を面白半分に追いかけるような好奇心で、蔵臼は冬花の姿を追い続けていた。そして、ある夜に娯楽室でのピアノの演奏をきっかけとして、あっさりと仲直りすることができた。仲直りとはいっても、結局何故彼女が自分を避けていたのかは分からずじまいだったが。
あの時と同じように、冬花が自分を避けている。そう、あの時と同じように。
それなのに、何故今の自分はこんなにも落ち込んでいるのか。あの時のように、無邪気な気持ちで冬花の姿を追うことが出来ないのか。こんなにも寂しい思いに打ちのめされているのか。

「あいつ、友達になる、って言ってくれたのに。俺のためなら、何時だって一緒にいる、って……そう言ってくれたのに」

蔵臼は、何の抵抗もなく自身の素直な気持ちを吐露した。
「あの時」にはなく、今はあるもの。
それは、冬花との関わり。心の距離。
最初に冬花に避けられた時……彼女は蔵臼にとって、ただの使用人だった。年齢が近いということで源次や熊沢よりも身近に感じてはいたが、それでも彼女が「使用人」という括りの範疇から飛び出すことはなかった。だが今は違う。冬花は蔵臼にとって初めてできた、言いたいことを何でも言い合える大切な友達になったのだ。
学校のクラスメイトには「右代宮」の名前におべっかを使う連中か、父親のやっていることを誹謗中傷しては蔵臼を攻撃しようとする者たちのどちらかしかいなかったから。表面上は友達面していても、真に自分のために身を投げ出してくれる、逆に身を投げ出してもいいと思える相手は、これまで誰ひとりとしていなかったから。だから、自分の思いをすべてさらけ出しそして受け入れてくれた冬花は、蔵臼が生まれて初めて得た大切な友となった。だからこそ、その冬花から避けられているという事実は蔵臼の心を大きく傷つけ、そしてこれまで友と仲違いをしたことのない彼は、どうしていいか分からずにこうして途方に暮れるしかないのだ。

「はぁ……気が滅入るよなぁ。空までどんよりと曇ってら」

力なくベッドから起き上がり、窓ガラス越しの空を見上げる。
すでに季節は秋から冬へと移り、北風が吹きつける六軒島の空は、蔵臼の心情を推し量ったかのように澱んだ鉛色。はぁとまた息を吐き、カーテンを閉めようとする。
その視界の隅……島から船着き場に向かう道の途中に、見覚えのある後ろ姿が見えた。
腰まで伸びた黒髪、そして見慣れた使用人服。
「彼女」は、何処に向かおうとしているのか。
答えは、たったひとつしかなかった。否、そうであってくれと少年は願った。
次の瞬間、蔵臼は弾かれたように部屋を飛び出した。











「……………おい、待てよ」
「――――――――――――っ!!」

冷たい声。
同時に、右腕を掴まれる。乱暴に、力強く。
もう逃げることはできないと瞬時に悟った冬花は、躊躇うことなく声の主に向き直った。何時か必ず訪れると覚悟していた瞬間。だから彼女は堂々と声の主……蔵臼に視線をぶつける。
何か御用でしょうか? 
私、まだお勤めが残っていますので。
あの、腕を離していただけませんか? 痛いです。
しかし用意していた言葉たちは一瞬で行き場を失い、冬花はただ立ち尽くした。微かに足が震えていることをどうか見抜かれませんようにとただそれだけを漠然と願いながら、冬花は蔵臼の言葉を待った。
そして蔵臼も、何を口にしていいのか分からず、ただ沈黙した。力任せに冬花の腕を掴んでいたことにようやく気付き、「ごめん」と小さく呟きながら彼女の右腕を解放する。しかしこの後何を話せばいいのか、何をすればいいのか……頭が真っ白になった蔵臼は何も考えることができず、大粒の汗を滴らせながら立ち尽くすことしかできなかった。
冬花の後ろ姿を目撃し、全速力で此処まで走ってきた蔵臼。
やっと冬花と話ができる。自分が何か彼女の気に障ったことをしたのなら、言ったのなら謝ろう。どうして自分を避けていたのか、その理由を訊こう。そして、仲直りしよう。友達と喧嘩をしたのなら、仲直りをしなければ。自分にとって初めてできた、立場や性別の差を越えた大切な友達。失いたくない。これからも、彼女と仲良くしていたい……!
その一心で、蔵臼はやっと冬花に会えた。しかし彼もまた、用意していた筈の言葉を何も発することができず、彼女と同じようにただ立ち尽くした。何故何も言えないんだと、自分の情けなさを嫌悪する。


「御用がないのであれば……これで失礼します。蔵臼さま」
「………………………!?」


冬花の言葉に、蔵臼は凍りついた。
あまりにも明確な拒絶の意思が、その言葉には乗せられていた。

「な……なんだよ、『蔵臼さま』って、他人行儀な言い方は。あはは、は……友達にはそんな呼び方しちゃ、さ……いけないって……言ったろ? はは、ははは……」
「ええ、私と蔵臼さまはお友達ではありませんから。蔵臼さまはご主人。私はご主人に仕える使用人。ただそれだけのことですから、そうお呼びするまでです」
「何でだよ!? この前、言ってくれたじゃないかよっ!! 
俺たちは友達だって! 右代宮とか使用人とか関係ない、言いたいこと言い合える友達になろうって! お前だって、そう言ってくれたじゃないかよっ!! それなのに、何で……何で、今になってそんなこと……そんな赤の他人みたいなこと言うんだよ!!」
「……蔵臼さま、落ち着いてください。声が大きいです」
「――――――!!」

どこまでも落ち着き払った冬花の声が、蔵臼の何かに火を点けた。
謝罪の言葉と共に解放した冬花の右腕を、先刻よりもさらに荒々しく掴む。肩が外れてしまうのではないかと思えるほどに力任せに、強引に。小さく悲鳴をあげる冬花に構わず、蔵臼は彼女を引きずるようにして歩き始めた。
あの場所なら、冬花は戻ってくれるかもしれない。
あの場所なら、冬花は本心を話してくれるかもしれない。
―――その期待は、たった今目にした、耳にした現実の前では、あまりに頼りなかった。





規則正しい音が、ふたりきりの空間に響く。
背後に、確かに彼女の存在を感じる。
これまで幾度となくふたりで訪れた、蔵臼の秘密のトレーニング場。此処で蔵臼は何時ものとおりボクシングの練習に励み、冬花はそんな蔵臼を優しく見守り、時には声援を送る。ふたりだけの秘密の場所。彼らの絆そのものの、大切な場所。蔵臼は此処ではひとりの少年に戻り、冬花もまたひとりの少女に戻る。休憩時間には日々のたわいない雑談に興じ、太陽が西の空に沈みかける頃にふたりで帰る。それが蔵臼と冬花の、たった一週間前まで繰り返されていた当たり前の日常だった。そして今も、それまでと同じ光景が繰り返されている。蔵臼が心から楽しいと思えた日々の繰り返しが、今も再現されている。
それなのに、何故、今の自分は。
………力任せにサンドバッグを叩き続けていた蔵臼の両腕が、だらりと下げられる。冬花に背中を向けた姿勢のまま、彼はまた、同じ問いを再び発した。


「……………………………どうしてだ?」
「ですから……先ほど申し上げたことがすべてです。
蔵臼さまのお言葉に甘え、身の程も弁えずに友達だなどと申し上げましたご無礼を、どうかお許しください。これからも使用人として、蔵臼さまに誠心誠意尽くして参ります。申し訳ございませんが、此処に来るのも今日が最後です。私などを友達と思っていただいた、そのお言葉だけで十分です。本当にありがとうございました」

一気に言い切って、冬花は頭を下げた。
使用人として、非の打ちどころのない完璧な謝罪。そして蔵臼が、最も望んでいなかった言葉。
振り返り、感情を抑えきれぬまま冬花に詰め寄る。
生まれて初めて得た親友を、彼は失いたくなかったのだ。
………冬花がどんな気持ちでその言葉を振り絞ったのかなど、考えることすらしなかった。蔵臼は、自分のことしか考えていなかった。だから、こんなにも残酷な言葉を平気で振りかざした。冬花の心を傷つけることにしかならない、残酷な言葉の数々を。


「親父に言われたのか!? 俺と馴れ馴れしくするな、って。そんなの気にすることないって! 俺と冬花は別に恋人とかそういうんじゃないんだから! 友達なんだから! あ、最近ちょっと俺の都合で振り回しすぎたから怒ったのか!? それは悪かった。冬花は使用人の仕事を優先させてくれていいんだからな!? 時間が空いた時とか、休みの日だけ付き合ってくれればいいんだから! 
俺、冬花と友達になれて嬉しかったんだ。冬花の前では、カッコつけたり自分を隠さずに済むから。冬花は俺の味方なんだ、って思ったら、親父に怒鳴られたりしてもすぐ立ち直れるんだ。あの時、俺の友達になってくれるって言ってくれた時から、俺、毎日が楽しいんだ。
だから、だからさ……そんな悲しいこと言わないでくれよ。友達じゃないなんて、そんな悲しいこと言わないでくれよ」
「………五月蠅いですよ」


俯いたままの冬花から、短い言葉が漏れた。
ひたすら舌を動かし続けた蔵臼を、一瞬で黙らせた。
五月蠅い。
この一週間、冬花はこの言葉を何度使ったのだろうか。
源次に。自分自身に。そして蔵臼に。
この言葉を使うたびに、冬花は彼女自身を嫌いになっていった。
こんな言葉を使わなければならない今の自分が、たまらなく嫌いだった。


「五月蠅い、って言ったんですよ、蔵臼さま。
さっきから黙って聞いていれば、友達、友達、友達……馬鹿の一つ覚えみたいに。それ以外に言うことはないんですか? たかが使用人の私に、そんなに必死に縋って……ご自分が恥ずかしくはないんですか? 
私は、もううんざりなんですよ、蔵臼さま。あなたの泣きごとに付き合わされるのも。大金持ちのおぼっちゃんの気まぐれに振り回されるのも。私は忙しいんです。友達ごっこに付き合うほど暇じゃないんです。いい加減私を解放してくださいませんか? お願いですから」
「あ………あ………………」


どうして、自分はこんなことを言っているのだろう。
どうして、大好きな蔵臼さんにこんなことを言わないといけないのだろう。
こんなに好きなのに。こんなに大好きなのに。
でも、言わなければならない。
蔵臼さんは、右代宮の名前を継ぐ人だから。源次さまに言われるまでもなく、私だって分かっていたことだから。
この気持ちを貫いたら、蔵臼さんに迷惑がかかるから。蔵臼さんを困らせてしまうから。そして……私の願いが叶うことは絶対にないから。
ごめんなさい、蔵臼さん。
友達になってくれって言っていただいた時は、とても嬉しかったです。蔵臼さんとお友達になって、一緒に遊んだりお話しをしたり……とても楽しかったです。それは嘘偽りない、私の気持ちです。
でも、私は変わってしまいました。私は蔵臼さんの友達のままではいられません。この気持ちを抑えたまま、友達として振舞うことは、私には無理です。ですから、私は戻ろうと思います。ただの使用人に。気持ちを通わせる必要のない、ただの使用人に戻ります。
私の我が侭で勝手なことを言って、蔵臼さんを傷つけて、本当にごめんなさい。






「………………此処で、何をしている」
「父………………………さん」
「お館…………さま」


その言葉がなかったら、冬花は感情のままに想いを告げていたかもしれない。
その意味では、今この瞬間は確かに、冬花の人生の分岐点だった。蔵臼が想いに応え、ふたりで数々の困難を乗り越え……結ばれる。そんな未来も、もしかしたら存在し得たのかもしれない。彼女の願いが成就する可能性が、存在したかもしれない。
―――しかし今、その可能性は完全に潰えた。
この場に最も来てほしくなかった人物の手によって、あっさりと消えた。
右代宮金蔵。
六軒島の支配者。
蔵臼の父親。
変わり果ててしまった、蔵臼の父親。

「何をしている、と訊いている。蔵臼」
「…………………」

蔵臼の答えはない。答えられるわけがないのだ。
無断でボクシングのトレーニングに励んでいたなどと。本来、この時間は金蔵が出した課題に取り組んでいなければならない時間。自分が不在がちなのをいいことに、使用人を連れ出して自分の趣味に没頭していた。蔵臼がどんなに言い繕うとも、金蔵にとってはそれが事実だった。
こつ、こつ。
金蔵が蔵臼に歩み寄る。蔵臼は覚悟を決めた様子で、何も弁解をせずただ立ち尽くす。何を言おうと父の耳には届かないということを、蔵臼自身これまでの経験で嫌というほど味わってきたから。そして、父親と息子は向かい合う。まるで最初から蔵臼しかいなかったように、金蔵は冬花に視線すら向けることはなかった。殴られることを予期し、奥歯を噛み締める蔵臼。
しかし、その瞬間はやってこなかった。

「…………………?」

怪訝な表情で、目の前の金蔵を見上げる。
……金蔵の視線は蔵臼の顔にではなく、肩に掛けられた「それ」に向けられていた。


「これは……………」
「ボクシンググローブだよ、父さん。
あの時、父さんが戦争に行く前に縁日で買ってくれた、あのボクシンググローブ。思い出してくれた………?」


一縷の希望を託して、蔵臼は金蔵に詰め寄った。肩に掛けていたグローブを手に取り、金蔵の鼻先までつきつける。まるでそれを思い出してくれれば、かつての金蔵に戻ってくれると信じて疑わない様子で。
金蔵は蔵臼の気迫に一瞬だけ気圧されたようで、グローブを手に取りまじまじと観察し始めた。蔵臼は固唾を飲んでその様子を見守る。もしかしたら、このグローブを思い出してくれたら……本当にあの優しかった父に戻ってくれるのではないかと。傍らで見守る冬花も、何時の間にか手のひらにじっとりと汗をかきながら金蔵に視線を向け続けた。
……金蔵の口元が、僅かに緩む。
父は思い出してくれたのだ。自分との絆を。唯一残された、自分との絆を。これをきっかけに、父は変わるかもしれない。自分や母のことを考えてくれるかもしれない。戦争の後遺症から醒めて、自分自身を取り戻してくれるかもしれ「こんなものがあるから、お前は甘えを捨て切れないのだ。くだらん」






そのグローブは、大きな放物線を描いて森の奥深くへと消えていった。
蔵臼の世界で一番大切な宝物が、森の奥深くへと飛んでいった。
唯一つ残された父親との絆が、あっけなく消え、見えなくなった。
……金蔵はグローブを放り投げてから、呆然と固まったままの蔵臼に一瞥を加えて去っていった。
そして、この場にはふたりだけが残される。

「……………!!」

すでに小さくなった金蔵の背中を、持て得る限りの憎しみをこめて冬花は睨みつけた………一度たりとも振り返ることなく、金蔵は屋敷へと歩み続けた。はぁと息を吐いて、視線を蔵臼に向け直す。父親との絆を、まさにその父親の手で断ち切られてしまった少年にどんな言葉をかければよいのか途方に暮れながら。
……しかし、其処に蔵臼の姿はなかった。

「……まさか」

がさがさと遠くで草をかき分ける音が、冬花の耳に届く。
彼女の想像を裏付けるように。
もう、夕刻を遥かに過ぎた時刻。空も見る間に暗くなってゆく。こんな時間に深い森に分け入るのは、どう考えても自殺行為でしかない。

「蔵臼さま………! お待ちください!! 危険ですっ!!」

そう叫びながら、冬花は森の奥深くに飛び込んでいった。
自分も危険なのだという思いは、彼女の足をただの一瞬たりとも縛りつけることはなかった。
……鉛色の空から、何かが落ちてくる。小さな、白い結晶。
あっという間にこの島に降り積もり、周囲の景色を白く染めてゆく。
人々はこの結晶をこう呼ぶ。
「雪」と。





「はあっ、はあっ、はあっ………蔵臼さま、お戻りください!!
これ以上この森に入るのは危険です、早くお戻りくださいっ!!」

蔵臼の返事は聞こえない。
聞こえていないわけがない。蔵臼と冬花は、ほんの数メートルしか離れていないのだから。蔵臼が無視しているのだ。正確に言うならば、蔵臼の耳に冬花の呼び声は届いていたが気付かなかったのだ。
彼の頭の中にあるのは、たったひとつの感情だけ。
「あのグローブを、父との絆を取り戻す」ただそれだけだった。当の父に投げ捨てられたあのグローブだったが、自分が諦めてしまえばもう二度と絆を取り戻すことはできないと、蔵臼自身信じて疑っていないようだった。だから追いついた冬花が叫んでもそれは彼の耳には届かず、業を煮やした彼女に無理矢理腕を掴まれても、それを無意識のうちに振り払いながらきょろきょろと視線を忙しなく動かすのだった。
………周囲は、もう漆黒の闇に包まれていた。おまけに、先刻から降り始めた雪がこの森に降り積もり、視界を奪う。数十メートルの範囲とはいえ、この状況で小さなボクシンググローブを見つけ出すのは不可能と同義である。
しかし、蔵臼は諦めなかった。どれだけ冬花が説得して屋敷に連れ戻そうとしても、頑として拒否する。グローブを、父との絆を取り戻すまでは何があろうとこの森を出ないと、彼女を撥ねつけた。
こうしている間にも、どんどん森の奥深く……人の手が入っていない夜の森に蔵臼は進んでゆく。おまけに降り続く雪が、容赦なくふたりの体温を奪ってゆく。決してこの森の奥に進んではならないと源次から何度も聞かされてきた冬花にとっては恐怖以外の何物でもなかったが、それでも蔵臼を置いて帰ることなど彼女にはできなかった。できるはずがなかった。
―――そして、蔵臼の姿が消えた。唐突に、何の前触れもなく。


「くっ、くああああああ………!!」
「蔵臼さま!?」


声のする方向に、慌てて駆け寄る冬花。しかし、「来るな!!」という鋭い声に彼女の足は止まった……止まらなければ、彼女の命は失われていただろう。
……蔵臼は、咄嗟に掴んだ木の枝に右手一本で掴まっていた。彼の足元に、確かに地面はあった。ただし、10メートル以上も下方に。落下すれば良くて大怪我、打ちどころが悪ければ命すら容易に失いかねない場所だった。
蔵臼は宙づりのような状態で何とか持ち堪えていた。この場所が大きな断層のようになっていたことに気付かず、足を踏み外して落下しかけた蔵臼は辛うじて目の前の枝に掴まったのだ。しかしその枝はあまりにも細く、そう長くはもたないのが明白だった。

「蔵臼さま……! 早く!! 手に掴まってくださいっ!!」
「駄目だ! 其処は地面がぬかるんで脆くなっている! 
お前が其処にいたら崩れ落ちるかもしれないっ! お前まで危険だ! 早く帰れ! 人を呼んできてくれ………!」
「その枝がそれまで持つわけがないでしょう!! 私なら平気です! 主人を助けるのは使用人の勤めです……蔵臼さま、早く!!」

冬花が、懸命に手を伸ばす。
しかし蔵臼はその手を拒むように、首を横に振り続けた。冬花を危険な目に遭わせるわけにはいかない。それが蔵臼の冬花に対する……大切な友に対する精一杯の思いやりだった。
……冗談じゃないと、冬花は思う。
そんな自己満足で死なれたら、残された人間はどうすればいいの。友達なら、親友が目の前で死んだら、助けられた筈なのに助けられなかったらどれだけ悔しいか、一生後悔するのか……この人は分かっていない。何にも、分かっていない。


「ふざけないで!! あなたはそうやって格好つけて死ねばそれで満足でしょうけどね……残された人間はどうすればいいの!? 一生後悔して生きていくんですよ!? 自分の無力さを呪いながら、責めながら、一生!! 
あなたは私にそういう思いをさせたいんですか!? あなたが言ったんですよ、私に!! 『友達になってくれ』って!! 私にそうやって生きていけっていうんですか!? そんな重荷を私に背負わせる気ですか!?
答えなさい、蔵臼さん!!!!!」
「冬、花……………」



もう、友達でもいい。
これから、自分がどれだけ傷つくのか。どれだけ辛い思いをするのか。それを考えるのは、とてもとても怖いこと。ただの使用人に戻れるなら、いや、この島を出てゆけるなら……どんなに楽だろう。或いは、自分の思いを伝えられるなら。自分の気持ちのままに突っ走れるなら、どれだけ気持ちいいだろう。
でも、私は今この瞬間、もう決めてしまった。
私は、蔵臼さんの一番の友達でいよう。私の方がひとつ年上だから、姉代わりでもいいかもしれない。きっと蔵臼さんは、「子供扱いするなよ」って拗ねるでしょうけどね、うふふ。
自分の気持ちを完全に殺すこともできない、気持ちのままに突っ走ることもできない私は、きっとこうするべきなんだ。私はもう、この人から離れたくない。どれだけ辛い思いをしたとしても、離れてしまうよりはずっといい。これからも六軒島で、蔵臼さんの傍にいよう。この人が大人になって、何処かの誰かと結婚して、私なんてお邪魔虫になったとしても……一番の友達だからっていう理由で、ずっとつきまとってやるんだから。
これから何年も……もしかしたら何十年も辛い思いをし続けるんですから、いいですよね、神様……? このくらいのささやかな贅沢を夢見たって、いいよね………?



蔵臼の左手が、躊躇なく差し出される。
冬花は両手で掴み、渾身の力を込めて蔵臼の体を引っ張り上げた。


「はぁ、はぁ、はぁ……冬花、ありがとう…………俺の命を、助けてくれて………」
「何言ってるんですか、蔵臼さん」


そこまで言って、冬花は一瞬、言葉を切った。
目を閉じて、この2カ月のことを思い返す。蔵臼と出会い、一面を知り、友達になり……彼に恋心を抱いた、この2カ月間を。
そして、もう一度冬花は微笑む。その裏の感情を、完全に覆い尽くすように。止むことなく降り続ける雪がこの森の本当の姿を隠してしまうように、最高の笑顔で。



「蔵臼さんと私は友達なんですもの、当たり前じゃないですか」



その瞬間、冬花の心の何処かが死んだ。
何も気付かずに笑顔で冬花の手を取る蔵臼の視界の片隅に、見覚えのある布のかたまりが映った。
雪は未だに止む気配すら見せずに、この六軒島を白く染め上げ続けた。

























「10年前のことを……あの決断を………後悔しているか?」
「いいえ、源次さま………後悔などしていません」

もう、雪はとうに止んでいた。
今は再び、柔らかな日差しがこの島を優しく包み込んでいた。
冬の冷たい風に身を任せながら、冬花は背後から聞こえた問いに答えを返した。
そのまま、源次が彼女の隣に並び立つ。こうやってふたりで話をするのも久し振りですね、と冬花ははにかみながら呟いた。

「この10年間……よく、我慢したな。蔵臼さまに気付かれることなく、よく耐えた……お前にとっては、本当に辛い日々だっただろう」
「辛い? そんな生易しいものではありませんでした。
地獄でした、源次さま。生き地獄です。そしてその地獄はもうしばらく続きそうです。私が決めたことですから、誰かを責めるつもりなんてありませんけど」
「今からでも……他の幸せを見つけるつもりはないのか? お前を使用人として……或いはひとりの女性として必要としている人間は、それこそ幾らでもいるのだが」

源次は、申し訳なさそうに冬花に訊く。
この10年間、数え切れぬほどぶつけた問い。そして今回も、彼女の答えは何時もとまったく変わることはなかった。

「……蔵臼さんは、私にとってはたったひとりの人です。私にとっては、この島がたったひとつの世界です。右代宮家からクビにされない限り、何時までも居座ってやるんです。熊沢さんみたいにね。うふふ……!」
「蔵臼さまと夏妃さまは、来月……年明け早々に、結婚披露宴を執り行われる。それからは、名実ともに夏妃さまが蔵臼さまのたったひとりの女性になるのだ。いずれ、お子様も産まれよう。
お前はそれを、蔵臼さまの一番近い場所で見ることになるのだ。耐えられるのか? そんな光景を目の当たりにし続けて」
「―――――――――」

淀みなく動き続けた冬花の口が、閉ざされた。
そのまま数歩歩みを進める……あと数歩進めば、其処は数十メートル下まで続く崖しかない。
……ここから身を投げれば、どれだけ楽になれるだろう。
この10年間、そのことを考えない日はなかった。暴発しそうになる蔵臼への思いを必死に抑えつけ、その度に思った。こんな辛い思いをし続けるくらいなら、このまま楽になってしまいたいと。すべてを終わらせて、楽になってしまいたいと。
しかし、冬花は死ななかった。死ねなかった。
崖先に立つ度に蘇る、あの時の記憶。
自分に後悔をさせる気か、友達の自分に悲しい思いをさせる気かと蔵臼を怒鳴りつけた、あの時の記憶。それが、彼女の足をこの島に縫いとめた。ぐるぐるに縛りつけた。だから彼女は今日も生きている。そして、叶わぬ蔵臼への想いに、今も傷つき続けている。


「この前……言われたんです。留弗夫さまに。
このまま自分の想いを伝えなくていいのか、後悔しないのか、って。留弗夫さんは、勇気のある素敵な男性(ひと)になるでしょうね。私はもう、この想いを抱えたまま生きて行くことに決めましたから。どれだけ辛くとも。どれだけ悲しくとも」
「………すまない」


ばしん。


源次の頬が、乾いた音を立てた。
手を振り切った姿勢のまま、冬花は涙を流していた。
蔵臼には、決して見せない涙を。
源次しか知らない涙を。
同情なんて、しないで。
10年前のあの時のように、その目は真っ赤に燃え盛っていた。
そして、彼女は屋敷へと向かう。今日の仕事を終わらせるために。
溢れる涙を拭うこともせず、吹きすさぶ北風に身を縮こませることなく、堂々とした足取りで。
冬花。
その名に冬を宿した彼女は、その胸に抱えた想いを一生抱えていく。この島で、ひとりきりで。












そうなるはず、だった。











<つづく>









2011.08.26 Fri l うみねこ l コメント (1) トラックバック (0) l top

コメント

こんばんは
湖都さん、豚骨ショウガさん
ブログでは初めてですね。
蔵臼、夏妃、冬花が悩みながらも一生懸命に生きている様子が心にひしひしと伝わります。まるで本当に人物が存在するようなそんな感覚。続きを楽しみにしています。みんながみんな幸せになってほしいですね。どんな結末になるのでしょうか。
2012.02.12 Sun l 乗組員Z. URL l 編集

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