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こんばんは、湖都です。
六軒島の花嫁第十四話が完成しました。
今回は豚骨ショウガさんが担当です。
それではお楽しみください。








人の営みとは、何の関わりもなく進んでいくもの。
人の想いを無慈悲に変え、またある時には人の心の傷を自然に癒してゆくもの。
時間。
誰にとっても平等に訪れ、過ぎ去り、そして色褪せてゆく時間。
永久不変なものなど何処にも存在しないという真理を、自ら証明し続けるように。
絶えず時間は流れ、その場に留まることを自ら禁ずる。
留まるのは時間ではなく、人の思い。
時間に翻弄され、或いは既に取り残されてしまった者たちの思い。
……そんな、行き場を失ってしまった思いが。
ちっぽけなこの島にも、確かにあった。
そしてそれは今も、何処にも行けないまま。
かつて少女だった「彼女」の、心の中に。






「あ………雪、か……………」

首筋に伝わる冷たい感触に、冬花は手に持った竹ぼうきの動きを止めた。
手を当てるとそこには、既に溶けてしまった水滴。
そのまま、視線を斜め上へ投げ掛ける……どんよりと曇った空から、ちらちらと舞い降り始めた白い結晶。海の青を覆いつくすように、白い雪がこの島に舞い落ちる。
この日は朝から気温が低く、東京本土では雪が降るかもしれないとラジオで予想されていたが、まさか東京からずっと南に位置するこの島で雪を見ることができるとは。12月も半分を過ぎ、いよいよ冬本番という時期ではあったが、それでもこの島で雪を見るのは極めて珍しいことだった。幼い子供なら物珍しさに興奮して外を走り回るのだろうが、この島には雪を見てはしゃぐような子供はいない。冬花は一瞬楼座を呼ぼうかとも思ったが、幼い少女のその年齢に似つかわしくない寡黙で繊細な横顔を思い返し、その足を止めた。
「雪………あの時以来、かもしれない………」
その代わりに。
冬花は無意識のうちに手のひらを差し出し、舞い落ちては消えてゆく雪の欠片を名残惜しそうに見つめた。
その漆黒の瞳には、何が映されているのだろうか。
今の彼女の心境を、誰が推し量れるというのか。
彼女自身ですら整理をつけられない、この雪のように淡く脆い感情を、一体、誰が。
「………………………………」
間もなく降り止んでしまうであろう、小さな冬の結晶たち。
まるで、ちっぽけな自分自身の行く末のようで。
その名に冬を宿す彼女は、しばらくの間、その光景に心を奪われた。
だから、気付くのが一瞬遅れた。


「この島に雪か………もしかしたら、あの時以来じゃないか? 冬花」
「あっ……蔵臼さん………蔵臼さま」


また、言い間違えてしまった。
どれだけ繰り返しても、その度にどれだけ気を付けても……間違えてしまう。自分の隣に立ち、眩しい物を見るように目を細める蔵臼は、その言い間違えを全く意に介する様子もなくにこりと微笑む。その笑顔に、また冬花の胸はざわざわと波打った。何時まで経っても呼び方を変えられない馬鹿な使用人と思われたのではないかと、羞恥に顔を赤らめて俯く。今更この人に何と思われようと、彼女の望みが叶えられることなど決してないのに。
――この10年で積み重ね過ぎてしまった関係は、最早冬花にとって容易に変えることができないほどに強く、彼女の胸の内に息づいていた。そして何時まで経っても彼を「蔵臼さま」と素直に呼べない自分を彼女は心から嫌悪し、そしてその度に………決して殺すことのできない熱い想いを自覚してしまう。
この数週間、同じことの繰り返し。一歩も先に進めない自分を痛いほど理解していながら、それでも彼女はこの島を去ることもできず、想いを告げることもできず……一か所に留まる水が次第に澱んでゆくように、彼女の表情はこの短期間で見る見るうちに暗く沈んでいった。その理由を知る者も知らぬ者も、彼女の変化を心配したが……何でもない、大丈夫だと笑顔でかわされてしまえば、それ以上追及することはできなかった。
その変化を知らないのは、ただひとり。

「……夏妃が、ずいぶんと落ち込んでいるようだ。ここ最近、君に避けられているのではないかとね。
年末年始を控えて使用人の仕事が忙しいのは分かるが、たまには相手をしてやってくれないか? こんな小さな島だときっと退屈だろうし、年の近い君が話し相手になってくれれば、彼女も楽しいだろうし、君も気が晴れるかもしれない。
君が何に悩んでいるのかは分からないが………どうだろうか」
「はい…………お気遣い、ありがとう………ございます」

夏妃という単語に、最早彼女の心臓は条件反射的に痛む。ずきりずきりと、止むことのない鈍痛がその華奢な身体を絶え間なく苛む。
ほんの数ヶ月前まで味わうことのなかった痛みは、何時まで経っても慣れることはなく。
同時にぼんやりと滲み始める、彼女の視界。白一色の雪景色に見惚れている振りをしながら、そっと袖口で顔を拭う。
蔵臼は、気付かない。気付けない。
心から大切に思う存在を手に入れた彼には。
自身の幸せを摑まえた彼には、決して手に入れることができないと思い知らされた彼女の気持ちに、気付けない。
彼女が悩んでいることを知ってはいても、その理由に気付けない蔵臼の、優しく残酷な提案。大声をあげて泣き出してしまいたい衝動を辛うじて堪え、冬花は何とか言葉を繋ぎ……取り繕った笑顔で頭を下げた。その笑顔が本心からではないことを長年の付き合いで知っている蔵臼も、それ以上は何も言えずに曖昧に頷くことしかできなかった。
彼もまた、冬花の変調に戸惑っていた一人に過ぎなかったから。
彼女に一番近いところに居ながら。
否、一番近くに居たが故に、その理由に思い当ることができなかったから。



「あ……蔵臼さま……お引き留めして申し訳ありません。
これから、東京へ発たれるのですか?」
「あ、ああ……そうだ。取引先に、結婚の挨拶回りをしないといけなくなったからね。ほとんどの人には披露宴の招待状を送ってあるけれど、特にお世話になった人たちには直接渡したいからな。
夏妃は昨日向かったが、私の方は仕事のせいで一日遅れでね……多分一週間は戻ってこれないと思うけど、その間、よろしく頼むよ。
その……何に悩んでいるかは分からないが、あまり思い詰めないようにな」
「はい、お気遣いありがとうございます。蔵臼さまも、お気をつけて……行ってらっしゃいませ」
「ああ……それでは行ってくる。留守中、よろしく頼む」



うまく、笑えただろうか。
うまく、誤魔化せただろうか。
蔵臼の背中がすっかり小さくなったのを見届けてから、冬花はその場にしゃがみこんだ。
「お願い……誰か……………助けて…………」
その掠れた声は、誰にも届かない。誰も、彼女を助けられない。
大きく肩を上下させ、荒い息を何度も繰り返す。ここ数日ほとんど何も食べていない彼女の胃はすでに空っぽだったが……それでも、こみあげる嘔吐感が細い身体を責め続けた。溢れ続ける涙と口からこぼれ落ちる唾液が混ざりあって、地面にいくつも染みを作ってゆく。
早くこの雪が、この染みを消してくれればいいのに。自分の未練たらしい恋心を、綺麗に覆い隠してくれればいいのに。こんな自分なんて、この雪に埋もれてしまえばいいのに。
冬花は、心からそう願う。
その願いを嘲笑うように、六軒島の雪はあまりにも頼りなく、その結晶はあまりにも小さく。

『取引先に、結婚の挨拶回りをしないといけなくなったからね』

改めて、彼女の喉元に突きつけられた現実。見て見ぬ振りをしてきた報いが、今彼女の胸を滅多刺しにしている。流れ出るのは、彼女の心の血液。その名を「希望」という。
仕方ないと諦めた振りをしていても、従順な使用人を演じても、取り繕った笑顔を貼りつかせても……蔵臼の放つ一言一言は、こうも呆気なく冬花の努力を一瞬で無にしてしまう。その度に自分が傷つくことを知り過ぎてもなお、彼女はこの島を離れることはできない。
蔵臼を愛しいと思う気持ちが、彼女をこの島の地中深くまでぐるぐるに縛りつけている。
そして、彼女自身がそれを望んでいる。
望んできた。
―――10年前、初めてその「少年」と出会った、その日から。












六軒島の花嫁

第十四話「追憶の白(前編)」










「はじめまして…………冬花(とうか)と申します。使用人として、今日からお世話になります。よろしくお願いします………………蔵臼さま」
「ふん……」








ぎこちなく頭を下げた少女を一瞥して、少年は足早に食堂を去っていった。
まだ半ズボンが似合う「可愛らしい」という表現がぴったりと当てはまる美少年は、その端正な顔を醜く歪ませて歩き去ってゆく。少女の傍らに立つ源次の咎めるような視線を、完全に黙殺して。彼の右頬には、傍目にもはっきりと分かるほどに大きな痣ができていた。その痣を隠すように、少年は右手を頬に当てたまま去ってしまった。彼の全身に何者をも拒絶してしまう雰囲気が纏わりついているのが、初対面の冬花でさえ見て取れた。
だから、冬花は少年に訊くことができなかった。
「あ……源次さま……今、蔵臼さま、お顔に怪我を……?」
少年の後ろ姿が見えなくなってから、源次にもう一度問う。彼女をこの島に連れてきた「右代宮金蔵の片腕」呂ノ上源次に。
―――1946年。太平洋戦争で家族を亡くし、孤児院に押し込められ行き場を失ってしまった冬花にとって、自分を助けてくれた上にこの島に連れて来てくれた源次は、この世で唯一頼れる大人だった。自分の父が源次と親交があったおかげで、戦争で家族を失った自分も命を繋ぎとめ、しかもこの屋敷の使用人という働き口まで紹介してもらうことができた。まさに文字通り「命の恩人」。源次の言うことなら何でも聞こうと思うし、一生をかけてもこの恩に報いたいと、まだ14歳の少女は固く固く胸に誓ってこの六軒島にやって来たのだった。
「…………………あまり、いらぬ詮索はしないことだ。
蔵臼さまは多感なお年頃。いろいろと悩まれることも多いのだろう。余計なことは考えず、お勤めに励むように。いいな?」
「は、はい………すみませんでした」
普段から感情の起伏に乏しい源次だったが……冬花の問いに答えた彼の声色は普段よりも更に低く、この話題を続けるべきではないと判断した彼女は慌てて頭を下げた。それでいいと、無言のまま頷く源次。
「………使用人の仕事については、熊沢から聞くといい。さっそく今日から働いてもらうことになる。厨房に行くといいだろう。話は通してある。とにかく、何事にも一生懸命励むように。いいな?
それでは、私はお館さまに呼ばれているので、ここで失礼する」
「は、はい………」



食堂から去っていく源次の背中に頭を下げてから、冬花はぐるりと周囲を見渡した。何処を見ても、どんなに小さな家具ひとつ取ってみても、すべてがきらびやかな装飾と細かな意匠が施されている。一体どれだけのお金があればこんな豪華なお屋敷を建てられるのだろうと、彼女は全く意味のない感慨を抱いた。この場に立っている自分がひどく場違いな存在に思えて、思わず苦笑してしまう。
そしてこの屋敷にあるものは当然、彼女にとって初めて見るものばかり。今日からこの屋敷で働くことに対する不安がないといえば、それは嘘になる。しかし、戦後の混乱でろくに食べる物もなく死んでゆく同世代の子供と比べて自分は恵まれているのだと思い直し、使用人として一生懸命働こうと決意する。そして自分はひとりきりではない。源次がいる。年齢の近い子供たちもいる。勿論馴れ馴れしく接することは許されないし、自分もそんなつもりはない。己の立場は弁えているつもりだ。それでも、蔵臼、絵羽、留弗夫という3人の子供がいると聞かされた時に胸が躍ったのは事実。戦争中には子供らしい遊びが出来なかったが、休みの日や空き時間におしゃべりをしたり、一緒に料理を作ったり……そういった交流程度ならば許されるのではないか。冬花はこの島にやって来たこの時、そんなことを夢想していたのだった。
「蔵臼さま、か…………どんな人、なんだろう」
そう呟く冬花の脳裏に蘇る、数分前のやりとり。
視線を合わせることすらなく、吐き捨てるような言葉と共に去っていった少年。その対面は、都合のいい幻想を夢見ていた冬花を現実に引き戻すには十分すぎるほどに冷たかった。しかし「甘やかされて育ったお坊ちゃん」という勝手に抱いていたイメージとは全く違う反応に、冬花はむしろ蔵臼に対する興味すら持ち始めていた。

「あの時………蔵臼さま……………泣いて………た?」

そして、少女は思い出し、想像する。
冷淡に立ち去った少年の目に、うっすらと光るものがあったことを。
それは多分、右頬の傷の痛みが原因ではなく―――心の痛みが流させたものだということを。
「右代宮、蔵臼………さま、か」


もう一度少年の名を呟いてから、冬花は厨房へ向かうために食堂の扉へと足を進めた。
あの時の彼の目が、冬花の脳裏から消えることはなかった。
これが、恋のはじまり。
少女をこの島に縛りつけ。
叶わぬ恋に苦しみ、絶望し、嘆き、灼かれる。
悲しい初恋の、これがはじまり。







「冬花………なかなか頑張っているようだな。熊沢からよくやっていると聞いている。お館さまもお誉めになっておられたぞ」
「あ、ありがとうございます……でも、私なんてまだまだです…………」

珍しく上機嫌な源次に肩を叩かれながら、冬花は顔を赤くして俯いた。この一週間の頑張りが報われて嬉しい気持ちと、他人から面と向かって誉められることへの面映ゆい気持ちが混ざり合い……反応に困った冬花は再びティーカップに口をつけた。勿論、決して悪い気分ではない。
―――午後の使用人控え室。テーブルにつき、僅かな休憩時間を午後のティータイムに充てることにした源次と冬花。事前にある程度の情報は得ていたとはいえ、仕事のことや六軒島の歴史など、冬花が知らないことはまだまだ山ほどある。もっぱら源次と過ごす休憩時間はそういった質問の時間となっており、今日も同様に冬花の質問に源次が答える形で穏やかな時間は過ぎていった。
そんな中、唐突に源次の口から飛び出した言葉。突然のことに戸惑った冬花だったが、自分を紹介してくれた源次の顔に泥を塗るようなことにならずに良かったと肩をなで下ろす。
屋敷の各部屋の掃除。
庭の薔薇庭園の手入れ。
大量の洗濯物。
食事の準備と後片付け。
どれもまだ14歳の少女にとっては重労働であり、事実、冬花にとってこの一週間は慣れない仕事の数々に目の回るような忙しさだったが……元々器用で要領がいいことに加え彼女自身の頑張りもあり、たった一週間ほどの間に、彼女は早くも右代宮家使用人としての信頼を獲得し始めていたのだった。留弗夫や絵羽といった子供たちとの関係もまずまず良好と、今のところは使用人として非の打ちどころのない成績である。出産のために本土の病院に入院している金蔵の妻……右代宮初音との顔合わせが済んでいないことが気がかりではあったが、冬花ならば問題なかろうと源次は満足そうに目を細めた。

「でも、蔵臼さまには嫌われているようです。避けられているようにも感じますし………私、何か粗相をしてしまったのでしょうか」

照れくさそうに微笑む冬花の表情に、さっと翳が差す。
順調に始まったこの島の生活で、唯一彼女の心に引っかかった小さな棘。それは使用人としての仕事に専念している時には意識に上ることはないが、休憩中などふとした拍子に、あの少年の横顔を思い出してしまう。大きく刻まれた痣と、それを隠すようにかざされた手。そしてあの眼差し。何者をも拒絶していながら、誰よりも寂しそうに見えたあの少年……右代宮蔵臼のことを気にかけていることは彼女自身自覚し始めていた。
だから冬花は、源次に問いかけた。まともな答えが返ってくると期待していたわけではなかったが………それでも、問わずにはいられなかった。
「あの時以来……まともに自己紹介すら、できていないのです」
沈んだ声で、冬花は声を絞り出した。
気になる相手には嫌われたくはない。相手に自分のことを知ってほしい。見てほしい。それは当たり前の感覚。雇い主と使用人の立場の差は分かっている。分かってはいるが、せめてきちんとした形で自己紹介をし合う程度のことであれば何の問題もないのではないか。それすら必要とされないのであれば……自分は一体何なのか。冬花はそんな思いも込めて、源次の答えを待った。
「…………………………そうか」
しかし、源次は質問に答える代わりに一言だけ発して頷くと、それきり言葉を発することもなく黙り込んだ。寡黙な彼らしく、無駄な言葉も無駄な行動も一切ない返答。予期していたとはいえ、たったそれだけなのかと驚く冬花の無言の抵抗すら意に介した様子もなく、再びティーカップに口を付けてから静かに息を吐く。源次の口から次の言葉が発せられる気配は、やはりない。
そのまま、数十秒間続いた………ぎこちない沈黙。
耐えられなくなった冬花が、仕事を再開しようと立ち上がった時。

「…………冬花。蔵臼さまには、蔵臼さまのご事情がある。我々使用人は、与えられた仕事を確実に行えばそれでよい。無闇に立ち入らぬことだ」
「はい………分かっています」

そう答えた冬花の表情は、とてもその言葉通りとは言えなかった。不満と怒りが溶け合った、重く低い声。普段から無表情な源次ですら、その低い声色に思わず目を丸くして彼女を見上げた。
形のよい眉は八文字に寄せられ、口元は釣り上がっており、納得のいかない様子がありありと見て取れる。恩人の源次にはこれまで決して見せることのなかった、年相応の我が侭さが見え隠れする。
だから源次はもう一度釘を刺そうと口を開きかけたが、その一瞬前に使用人控え室の扉は勢いよく閉じられた。冬花の思いそのままに、激しく、荒々しく。

「……………………………やむを得ん、か。人の心は、抑えられん」

源次の呟きだけが、がらんとしたこの部屋に響いて消えた。
源次は、源次だから、気付いていた。
冬花をよく知る源次だから、気付いていた。
冬花の気持ちが、蔵臼へと向かい始めていることに。
そしてその気持ちはきっと、彼女自身を苦しめるだろうということに。



「どうして、ここまで嫌われなくちゃいけないの……!? 私は何も悪いことなんかしていないのに………どうして!? 使用人なんかと話す時間ももったいないというわけ!?」
ドスドスドスと音がしそうなほどに大きな歩幅で、冬花は午後の六軒島を歩く。無論遊ぶためではなく、屋敷に続く道を掃除するために、ほうきとチリトリを脇に抱えて。
しかしその表情は普段のおっとりした笑顔からは程遠く、不満と怒りが渦巻いているのがはっきりと見て取れた。この一週間、右代宮蔵臼から無視され続けていることと、先刻の源次の冷淡な態度が……彼女を珍しくも感情的にさせているのだった。時刻は午後3時。すでに季節は冬へと移り変わろうとしていたが、今は柔らかな日差しがこの島に降り注いでいる。しかし彼女の表情はそれでも晴れることはなく、手を動かしながらではあるが、ぶつぶつと不満を口にし続ける。やり場のない怒りを、ほうきを動かす動作にぶつける。彼女自身、何故そこまで苛立っているのか分からなかった。

「別に嫌いなら嫌いでもいいわよ。でも、一度もまともにお話したこともないのに、どうして嫌われなくちゃいけないのよ! 右代宮家の跡取りだからって、周りからちやほやされ過ぎなんじゃないの!? だから我が侭な」「―――――悪かったな、甘やかされて育った礼儀知らずのボンボンで」

「ひっ……………!! く、く、く……蔵臼、しゃま………!?」
「噛むな。仮にも右代宮家の使用人が」

終わった。終わった。完全に終わった。
たった一週間で、この島の使用人生活も終わりか。まあ、いい夢見させてもらったわよね。ありがとう、源次さま……私はここをクビになっても元気で生きてゆきます……どうかこの島から見守っていてくださいね? この島でのことは一生忘れません……みなさん、ありがとう………(遠い目)
ごつん!!
「痛っ!! …………いきなり何するんですかぁ~?」
「お前がいつまでも上の空だからだ。何度も呼んだ。
で……? もっと詳しく聞かせてもらおうか。俺のどの辺りがちやほやされた生意気なクソガキなんだ?」
「クソガキなんて言ってません!! ちやほやされ過ぎていろいろ勘違いしたアホの子だとは思いましたけど……って何正直に言ってるの私はアアアアア!!」
道の脇から突如現れた少年にはたかれた頭を押さえながら、いやいやと頭を振る冬花。肩まで伸びた綺麗な黒髪がぐしゃぐしゃに乱れている。その光景に一歩後ずさる少年。「ま、まあ……その………落ち着け」と、自分が悪口を言われたことも忘れて遠慮がちに声をかけた。

「はっ……!! すみません、蔵臼さま……取り乱してしまいまして」
「ん………? お前、俺の名前を知っているのか? というかお前は誰だ?
……って、ひいいいいいいいいっ!!」
「一度、自己紹介しましたよね? 冬花と申します。このお屋敷の使用人をしています。よろしくお願いしますね? もう忘れちゃ『嫌ですよ?』 く・ら・う・す・さ・ま?」
「痛い痛い痛い!! 手が……手の骨が折れる!! ぎゃああああああああああ痛い痛い痛い」

渾身の力をこめて、握手という名の物理攻撃を仕掛ける冬花。
そのあまりの力の強さに命の危険を感じながらも、何とかその攻撃を凌いだ少年。右代宮家後継者、右代宮蔵臼。
何だ、話してみると普通の男の子じゃないと、冬花は目の前でふーふーと手に息を吹きかける涙目の少年に好感を抱いた。確かに見た目は「育ちの良さ」を感じるが、言葉や態度は良い意味で「13歳の子供」に相応しい。今日まで無視されてきた怒りは、もうすっかり頭から消えていた。元々冬花は、怒りが長続きするタイプの人間ではないのだ。
まだ痛むのか、ぶんぶんと軽く右手を振ってから冬花に視線を送る蔵臼。まだ思い出せないのか、まじまじと冬花の顔を覗き込む……突然の急接近に全身の血液が顔に集中してゆくのを自覚しながら、冬花は蔵臼の言葉を待った。

「あ、ああ……あの時か。そういえばあの時、源次に誰かを紹介されたな。お前が冬花か。まあ、あの時は……悪かった。俺もしばらく気が立ってたんでな。別にお前のことを無視していたわけじゃない。ちょっとこの2、3日は腹の虫の居所が悪かったからだと思う。誰とも話をしたくなかったから、避けてたように見えていたかもしれないな。気にしていたのなら悪かった」
「いえ、気にしていません。それより、あの時の痣……大丈夫でしたか?」
「ああ…………あれか。親父に殴られるのは何時ものことだし、もう慣れたさ」
「え………!?」

『親父に殴られる』
何でもないことのように話す蔵臼に、衝撃を受ける冬花。その口調があまりに自然だったから、言葉の意味が一瞬理解できなかった。しかし、聞き間違えでも錯覚でもない。彼は今、確かにこう言ったのだ。「親父に殴られるのは何時ものことだ」と。
一週間前の初めての顔合わせを思い出し、冬花は蔵臼の右頬に意識を集中させて覗き見た。彼の右頬には一週間前に見た痣は既に消えていて、見た目には分からなくなっていた。しかし、彼女は確かに見たのだ。くっきりと大きく刻まれた痛々しい痣と……少年の辛そうな目を。しかも、実の父親に殴られた傷だという。まだ13歳の蔵臼の心に、傷が残らないわけはない。少なくとも自分なら、その傷は一生消えることはないだろう。
何かを言いかけた冬花だったが……蔵臼の毅然とした声にぴしゃりと遮られる。
それまで冬花が会話を交わしていた「少年」は消え去り、名誉ある右代宮家長男がそこには立っていた。

「お前が何を想像しようと自由だけどな。これだけは言っておく。
これは、この家の中のことだ。使用人のお前が口出しすることじゃない。それに親父に殴られたのは、俺がまだ未熟だからだ。だからこれは、俺の責任なんだ」
「蔵臼さま……………」

殴られた本人にそう言われてしまえば、冬花は何も言葉を返すことはできない。所詮自分は使用人でしかなく、雇い主である右代宮家で起こったことに首を突っ込む資格などないのだから。
そのことを思い知らされた気がして、冬花は悲しげに視線を蔵臼の顔から移そうとした……が。

「あの、蔵臼さま……? 首に掛けていらっしゃるのは……何ですか?」
「ん……? ああ、お前は見たことがないかもしれないな。
これは、ボクシンググローブさ。今まで其処で、シャドウボクシングをやっていたのさ。
………あ、親父や絵羽たちには内緒だからな。此処は俺の秘密の練習場なんだから」
「ボクシング………ですか? 聞いたことはありますが……見るのは初めてです」

蔵臼が指差した先……一見するとただの草むらにしか見えないが、促されて一歩分け入ると、綺麗に整備された小さな空き地が見える。蔵臼は此処で、人知れずひっそりとボクシングの練習をしていたのだ。それを裏付けるように、蔵臼の額には玉のような汗が浮かんでいる。
そして彼の肩には、紐で結ばれた2つの布のかたまり。蔵臼はそれを肩から下ろすと、冬花に触ってみろと差し出した。冬花は数瞬の逡巡の末、恐る恐る両手で受け取った。ごわごわとした布の感触が心地いいが、随分と使い込まれた様子で既にぼろぼろになっている。何度か縫った後も見える。お金持ちなのだから新調すればいいのにと思いながら、冬花はグローブを蔵臼に返した。

「蔵臼さまは……ボクシング選手になるのが夢なのですか?」
「………違う。これは、ただの趣味。息抜きさ。本当ならこんな遊びをしてる暇なんてないんだけど、まあストレス解消にちょうどいいから続けているだけさ。まあ、金持ちのお坊ちゃんの道楽ってやつだから。あはははは……!」

嘘です、という言葉を、冬花はやっとの思いで飲み込んだ。
ボクシンググローブを冬花に差し出した時の、蔵臼の目の輝き。生き生きした表情。この島に来て初めて見ることのできた、蔵臼の心からの笑顔。それを見れば、ただの「ストレス解消」のためにボクシングをしているわけはない。そして、大事に使い込まれたあのグローブ。それは彼がボクシングと真摯に向き合っている証であり、彼にとって大切なものに違いないと容易に想像することができる。そして人目から逃れるようにしているのは、きっと彼の父親、右代宮金蔵から禁じられているから。それでもなお続けるのは、蔵臼にとってボクシングが単なる趣味などではなく、彼にとって大切なものだから。
冬花は特別に洞察力が優れているわけではない。しかし、蔵臼の言葉や表情から、そのくらいのことは容易に推測し得た。
しかし、当の蔵臼に、たった今宣言された。「使用人が口を出すな」と。悲しいことだが、それは紛れもない事実。自分に、蔵臼の心中を詮索して言葉にする資格などない。同じ年頃の少年に見えても、彼は右代宮家長男。ただの13歳の少年ではない。それに比べて、自分はただの使用人。自分たちの間には、目には見えない大きく厚い壁が存在するのだ。その壁は越えることも壊すことも許されず、また蔵臼自身もそれを望んでいないようだ。叩きつけられた現実に冬花は落胆したが、それが当たり前のことなのだと自分に言い聞かせると……蔵臼に頭を下げた。

「すみません、お掃除がまだ途中なので……失礼します」
「お、おい………俺、何かお前の気を悪くすることを言ったか?」
「いいえ。それでは失礼します」

突然の辞去の言葉に、目を白黒させて引き留めようとする蔵臼。しかし、冬花は慇懃無礼な一礼を繰り返してから屋敷へと歩き始めた。此処に来た時と同じく、大きな歩幅で、誰にも追いつかれないように。
………誰かが追ってくる気配は、ない。
そのことが余計に悔しくて、冬花は自棄気味に屋敷へと飛び込んだ。
蔵臼と初めて話すことができて、とても嬉しかった。
蔵臼との立場の違いを思い知らされて、少しだけ悲しかった。
未だ、彼女は自覚していない。
この日、この時、己の胸に蒔かれた「恋の種」に。







「はぁ……………」
今日何度目の溜め息なのか、数えるのも馬鹿らしい。
冬花は半ば自棄気味に雑巾をごしごしと窓ガラスに押しつけながら、また大きな息をついた。溜め息をついた分だけ幸せは逃げるよ、と冬花は幼い頃に母から教えられたが、今日に限っては彼女はその教えを守る気は毛頭ないらしい。
今日は朝からこんな状態だから、当然使用人の仕事が時間通りに完了するはずもない。普段なら夕食の後片付けを終えた後は自由時間であり、使用人控え室でのんびりとくつろいだり本を読んだりするのだが……今日はまだお勤めを終えていないということで、夕食後もこうして窓ガラスの雑巾がけをすることを余儀なくされている。この年完成したばかりのこの屋敷はとにかく広く、窓ガラスの数も膨大。まだ真新しいこの屋敷は一見そこまで掃除する必要がないほどに清潔に思えるが、そこは完璧主義者の源次のこと。「右代宮家のお屋敷は常に完璧に美しくなければならない」との信念で、数日に一度はこうして全ての窓ガラスを拭かなければならない。
しかし今冬花が漏らした溜め息は、決して屋敷の雑巾がけに嫌気がさしたことが理由ではなかった。単にお勤めが過酷なだけならば、彼女はどれだけ歯を食いしばってでもやり遂げるだろうし、彼女がこの島に来た時の覚悟はいささかも揺らいではいない。使用人の仕事に関しては、だが。
それならば………今この時、彼女の心を悩ませているものは、たったひとつ。

「蔵臼さま……きっと、怒っているだろうな。
私、こそこそと逃げ回って………どうして、こんなことをしているんだろう」

窓ガラスに映る自分の姿に問いかけても、答えはない。情けない顔をした自分が其処にいるだけ。
そんな自分を見るのが嫌になったのか、ごしごしと力を込めて雑巾をかける。
ここ数日のみっともない自分を消してしまいたいと願いながら、強く、強く。
初めて蔵臼と会話を交わしたあの日から、もう3日。
あの時のぎこちない別れ以来、冬花が蔵臼と会話を交わすことはなかった。正確に言えば、冬花が蔵臼から逃げていた。食事時や午後の休憩時間、夜の自由時間などに蔵臼が自分に話しかけようと近付いてくるのだが、冬花は何かと理由をつけて逃げ回ってきた。そんな冬花の動作は傍目から見れば明らかに不自然なのだが、源次も熊沢も冬花に注意をすることはなかった。だからこれでいいのだ、と冬花は思った。
蔵臼さまとは馴れ馴れしく接してはならない。使用人は自分の仕事だけに集中していればそれでいい。源次さまも事あるごとにそう言ってきた。だからこれでいいんだ。蔵臼さまも、すぐに飽きて私に見向きもしなくなるだろう。今は私のことが物珍しいだけ。じきにどうでもよくなるに違いない―――
『これは、この家の中のことだ。使用人のお前が口出しすることじゃない』
そう結論付けようとするたびに、冬花の頭に鳴り響く声。
毅然とした声で蔵臼から叩きつけられた、拒絶の言葉。今も鮮明に、冬花の胸に刺さり続けていた。否、それは拒絶ではなく当たり前の線引きでしかないのだが、まだ14歳の冬花がそう単純に割り切れるはずもなく……「気になる男の子に拒絶された」との思いはあれから3日が過ぎた今も、彼女の表情に影を落とし続けてきた。昨日までは何とか仕事をこなすことができたが、今日の出来は散々だった。

「はぁ……………あら? 
あのお部屋、まだ明かりがついている。それに、この音は………ピアノ?」

思考の袋小路に迷い込んでいたから、気付かなかった。
廊下の先の突き当たり……あれは、娯楽室。そこから明かりが漏れている。そして、微かにではあるが、ピアノの音も。
一瞬「幽霊!?」と飛び上がりそうに驚いた冬花だったが、結局は好奇心の方が勝ったらしい。恐る恐る足音を忍ばせながら、娯楽室へと足を進める。聞こえるピアノの音が、少しずつ大きくなってゆく。この屋敷は防音になっているが、どうやら扉が少しだけ空いているようだ。
そして、冬花は扉の前に辿り着く。
思い切り扉を開けようかとも思ったが、この美しいピアノの旋律をもうしばらく聴いていたいと思い直し、ほんの少しだけ扉を開けて演奏の主を確認しようと覗きこんだ。




「あ……あれは、蔵臼さま?」
「…………………………………………」


そこには、蔵臼がいた。
一心不乱に鍵盤を叩き続ける少年の後ろ姿が、そこには在った。


力強くも繊細な音色が、広い娯楽室と冬花の耳にだけ鳴り響く。
瞬く間に冬花は音色の海に飛び込み、全身で演奏を味わった。


「素敵な……曲……………」


冬花は、音楽の知識を持ち合わせているわけではない。
技術の巧拙など、彼女はまったく分からない。
そんな彼女にも、はっきりと分かった。
彼が精一杯の思いを込めて演奏するこのピアノの旋律は、どれだけ金を積んでも、どれだけ技術のある人間が弾いても、きっと出せないだろう。彼だから、この名前も分からない曲を今この場所で弾いているのが蔵臼だから……自分はこんなにも感動しているのだろう。涙を流しているのだろう。

「え……? 私、泣いて………る?」

少年の演奏が、クライマックスを迎えようとしていた。
その切ない旋律に誘われるように、冬花は静かな涙を流していた。
こんなに穏やかな気持ちで涙を流すのはいつ以来だろうと、冬花は泣きながら微笑んだ。


ぱちぱちぱち………!
最後の音を弾き終え、しばらくの間その余韻に浸っていた蔵臼。
突然の拍手に、何事かとびくっと飛び上がったが……。

「え………!? あ、冬花、か……。もしかして、今の聴いていたのか?」
「はい。すみません、盗み聞きなんか……でも、すごく、すごく素敵な演奏でした。
これは何という曲なのですか?」
「ああ、有名な曲だけどな。『パッヘルベルのカノン』っていう曲さ。まあ、これ以外は俺、何にも弾けないんだけどな。下手の横好きってやつさ。あはははは……!」
「そんな……ご謙遜なさらないでください。
『カノン』ですか………とてもいい演奏でした。時間を忘れて聴き入ってしまいました……。
私なんかの感想では、蔵臼さまも嬉しくはないでしょうけど」
「いや、そんなことはない。誰からだって、誉められれば嬉しいさ。
それに何たって、ずっと俺から逃げ回ってきた冬花をやっと捕まえることができたからな?」
「あ! ………それは、その……あの………すみませんでした」

バツの悪い思いで、項垂れるように頭を下げる冬花。蔵臼から逃げ回っていたことをすっかり忘れていた彼女の顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。蔵臼は冗談だよと笑いながら手を振ったが、冬花の申し訳ないという思いはますます大きくなっていった。思い返すと、何故蔵臼を避けなければならないのか。自分がとっていた行動がまるで見当違いの一人相撲に思えて、冬花はぎゅっと歯を噛み締めた。恥ずかしさで、蔵臼の顔をまともに見られない。
そんな冬花に苦笑しながら、蔵臼はまあ座れよと傍らの椅子を指し示す。冬花も仕方なく椅子に腰を下ろしたが、何を話せばいいのか分からすにすぐに黙り込んでしまう。蔵臼への申し訳なさとまだお勤め中であるという意識から、やはりなかなか落ち着くことができない。気分を変えようと、きょろきょろと周りを見渡す冬花。この娯楽室にはビリヤードやダーツなどの道具がいくつも配置されており、その中央には大きなグランドピアノが鎮座している。物珍しげにあちこちに視線を送る冬花を好ましく眺めた蔵臼だったが、ひとつ息を吐いてから……ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。



「今の曲……『カノン』はさ、小さい頃に母さんから教えてもらったんだ。
戦争が始まった直後だから……7つか8つの時かな」
「お母さまから、ですか…………」

ああと頷いてから、蔵臼は言葉を繋げる。
その目は、13歳の少年にはあまりに相応しくないほどに、暗く沈みこんでいる。
「戦争」
その単語は、冬花にとっても呪わしく、そして忌まわしかった。
戦争さえなければ、愛する両親を亡くすこともなく、家族全員で幸せに生活し続けることができたのに。決して裕福ではなくとも、勤勉な父と優しい母と、そして自分の3人。何処にでもある平凡な、しかし掛け替えのない「家族の幸せ」をあっという間に奪っていった戦争。何とか自分は生きて終戦を迎えることができたが、多くの友達は飢えで、或いは戦火に焼かれて死んでいった。もう2度とあんな悲惨な体験はしたくないと、冬花は心から戦争を憎んでいた。
そして、自分と同じ思いを抱く少年が、目の前に。

「……まだ、まともだった頃の母さんさ。
聞いてるだろ? 母さん、戦争が終わって親父が帰って来てから、ここがイカれちまった、って」
人差し指でこめかみを数回叩きながら、自嘲めいた笑みを漏らす。
勿論冬花も金蔵の妻である右代宮初音が精神を病み始めていることは聞かされていたが、蔵臼の何かを諦めたような表情に耐えられず、「はい」と頷くことしかできなかった。
それでも、蔵臼の言葉は止まらない。

「はは、女房の頭がおかしくなっちまったのが恥ずかしいんだとよ、我らが右代宮家の当主さまは。出産のためなんて言って、本土の病院に連れていきやがった。知ってるか? 精神病院ってさ、患者が暴れないように両手両足をベッドに縛りつけるらしいぜ。ひどい所だよな? そんな所に、あの人は……親父は、母さんを押し込めようとしたんだ……だから俺、必死に頼んだ。泣きながら頼んだ。母さんをそんな所に閉じ込めないで、って………。そしたら、あの人は俺に何て言ったと思う?」
「……………………分かりません」
「『お前も母親にそっくりだから、じきに精神を病むだろうな。右代宮の名前を汚すことだけはするなよ』だってさ。息子に向かって、大真面目な顔で言ったんだ。あの人は」
「そんな………ひどい」
「―――いいんだよ。俺のことは。
母さんは結局、南條先生のところで面倒を見てもらうことになった。あの先生なら安心して母さんを預けられる。本当によかった、って思った。何時か母さんは治る、子供を産んで、正気に戻って……そしたらまた、家族みんなで暮らせるから頑張って、って俺、ベッドの上の母さんを励ましたんだ。
そしたら親父、母さんに一通の封筒を渡したんだ。母さんは寝ていたから、結局は南條先生が預かったんだけど。
中身は………………離婚届だった」


轟音が、部屋中に鳴り響いた。
蔵臼が力任せに鍵盤を叩いたのだと、冬花は数秒後に理解した。
その轟音は、まるで彼の叫び声のようで。


「……………すまない。勝手に、こんな気の滅入るような話を、一方的に」
「いえ。私は構いません。蔵臼さまのお気持ちが晴れるなら、話してください。
それで、その後は……………?」
「さすがに、南條先生も怒った。あ、南條先生っていうのは本土の医者で、親父の古い友達なんだけど……『いい加減にしなさい』って言って、離婚届を破り捨ててくれた。だから俺はあの時、親父を殴らなくて済んだ」
「蔵臼さま…………」

蔵臼が、何度も両拳を閉じたり開いたりを繰り返す。
それきり、2人とも言葉を発することなく………時計の針が進む音だけがやけに五月蠅く聞こえた。
冬花は蔵臼の顔を見た。その表情は、一見穏やかに見えた。
今までずっと溜め込んできたであろう様々な感情が、言葉として一気に溢れだしたように見えた。そして、これまで彼の言葉を受け止めてきた人間は誰もいなかったのだろう、ということも。
彼はこの大きな屋敷の中で、ずっとひとりだったのだ。豪華な家具や何人もの使用人に囲まれても、贅沢三昧な暮らしに明け暮れても……少年の心は常に孤独だったのだろう。
―――周りに誰もいない孤独と、周りに人がいるのに感じる孤独は、どちらが辛いのだろう。
冬花には、分からなかった。
どちらも身を切られるように辛いのだろう、ということ以外は、何も。
だから冬花は、覚悟を決めてもう一度蔵臼を見た。自分に話して、さらけ出して……それで蔵臼の気持ちが晴れるのなら、いくらでも付き合おう。何時でも彼の傍にいよう。
その決意が伝わったのか。
蔵臼の視線もまた、冬花に向けられていた。


「………冬花は、戦争は嫌いか?」
「はい。大嫌いです。憎んでいます。戦争で、私以外の家族は全員死にましたから」
「俺、さ……戦争が何だったのか、よく分からないんだ。お前の前で言うことじゃないかもしれないけど………家族も誰も失わなかったから。
戦争が始まって、小田原の実家から東北に疎開して……ほとんど何も感じないまま、日常を繰り返して。気がついたらもう、戦争は終わっていた。俺の周りでは誰も死ななかったし、戦争があったことすら、もしかして嘘だったんじゃないかなんてバカなことを考えるくらい、俺の周りは平和だったんだ。
でも、そんなことはなかった。戦争が終わってから、俺は思い知らされた。夢でも幻でもなくて、実際に戦争はあったことなんだ、って。手遅れになってから、やっと気付いたんだ。
……戦争から戻ってきた親父は、人がまるで変わっていた。
ぞっとするくらい、冷たい目をしていた。
金のことしか話さなくなった。
俺や母さんを、平気で殴るようになった。
多分、戦争に行って親父のどこかが死んだんだと思う。それで、この島に引っ越して………何時の間にか、母さんの頭がおかしくなっちまって……! 
あんなに優しかった母さんが、気が狂ったみたいに暴れるんだぜ!? それなのに、それなのに親父は何もせずに、GHQのアメリカ野郎どもに尻尾を振って、金をせしめて!! それで高笑いかよ!! 無理矢理病院に押し込めて……女房ひとり幸せにできないで、こんな成金みたいな趣味の悪い屋敷をおっ建てて、何が栄光の右代宮家だよ!? 何が片翼の鷲だよ!? ふざけんなああああああああああ!!
何なんだよ!! あのクソ親父はああああっ!! 何であんな風になっちまったんだよ!? あんな金の亡者になっちまったんだよ!? 人の心の痛みが分からないクソみたいな大人に………なんで! なんで………ちくしょおおおおおおおおおおおおっ!!! 
出て来い! 親父の頭をおかしくしやがったやつ……! 親父を金の亡者にしちまったやつ……! あのグローブを買ってくれた頃の親父を、無口で不器用だったけど……俺の好きだった、大好きだった親父を殺しちまったやつ………出て来いよ!! あああああああああああああああああああああああああ!!!!!」



そこには、栄光の右代宮家を背負って立つ「選ばれた人間」はいなかった。
愛する両親の変貌に戸惑い、怒り………そして悲しみの捌け口をこれまで見つけられなかった、哀れな一人の少年がいるだけだった。彼もまた戦争の被害者なのだと、冬花の胸は締め付けられるように痛んだ。
ぶるぶると肩を震わせ、血が滲むほどに強く握りしめた両拳。ぼろぼろと止まることを知らずに両目から溢れ続ける、涙という名の少年の想い。その頬には、明らかに最近つけられたと思われる、新たな痣。
―――冬花は、泣かなかった。泣けなかった。
自分が泣いてしまえば、蔵臼はもう泣けなくなるから。我に返って、感情をぶちまけてしまったことを恥じて……「右代宮家長男」という仮面を、つけてしまうから。だから冬花は泣かなかった。この島で、少年の心の痛みを知ったのはきっと自分だけ。ならば、自分は支えよう。この少年を。自信を漲らせたこの少年の、壊れてしまいそうに脆いこころを、自分が支えよう。
それはきっと、使用人の仕事と同じくらい大切なこと。何故蔵臼が自分に話してくれたのかは分からない。きっと、単に話しやすく思われただけなのだろう。それでも構わない。私は、この人を支えたい。まだ数回しか話したことのない相手なのに。いや、回数なんて関係ない。私が、そうしたいと望むのだから。


「蔵臼さま……落ち着かれましたか?」
「ああ……ごめんな、冬花。見苦しい所を見せちまって………悪かった「いいえ、構いません。蔵臼さまのお気持ちがそれで晴れるなら、私は何時だってお傍にいますから……」
「ありがとう、冬花………」


冬花の細い指が、蔵臼の頬をそっと撫でた。
蔵臼は照れくさそうに、あははと微笑んだ。


「じゃあ、お言葉に甘えて……。
冬花、俺の友達になってくれ。使用人とか右代宮とか関係ない、何でも言いたいことを言い合える、俺の友達に。こう見えても俺、ちゃんとした友達ってほとんどいないから」
「はい、喜んで…………蔵臼『さん』」
「ああ、そうだな。『さま』なんて、友達につける呼び名じゃないよな。
それじゃ、これからよろしくな………冬花」
「はい、こちらこそ。蔵臼さん」


ふたりの右手が、しっかりと繋がれた。
それは、「友達」の握手。
蔵臼が生まれて初めて得る、言いたいことを言い合える「友達」。
冬花がこの島で初めて得る、立場の差を越えた「友達」。



「あ、悪かったな……何か、引き留めちまって。お前、まだ使用人の仕事の途中じゃなかったか?」
「あっ!? いけない!! 源次さまに怒られちゃう!! 早く終わらせないと!!
それじゃあ蔵臼さん、おやすみなさい! また明日………!」
「ああ、おやすみ……冬花」



1946年11月。
ここから始まった、蔵臼と冬花の物語。





蔵臼にとっては、頼れる友達を。或いは、ひとつ年上の「姉」を得ることのできた、苦しくも楽しい日々のはじまり。









冬花にとっては、叶わぬ恋心に苦しむ10年間の、地獄のはじまり。






<つづく>


2011.06.15 Wed l うみねこ l コメント (0) トラックバック (0) l top

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