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六軒島の花嫁第十二話が完成しました。
今回は豚骨ショウガさんが担当です。
それではどうぞ!







右代宮留弗夫は幼少の頃から、他人の心に入り込むことが得意な少年だった。
初対面の相手に対しても、その屈託のない笑顔と矢継ぎ早に繰り出される言葉で、瞬く間に相手に良い印象を植え付けてしまう。そして彼はそんな自身の能力を最大限に利用し―――無論、今のところそんな能力を発揮できる場所は「学校」という限定されたコミュニティーの中でしかないのだが―――居場所を確立してきた。
特段勉強ができるわけでもなく、人より運動神経が優れているわけでもなく……そして、特別に整った顔立ちをしているわけでもない。一見、何処にでもいる「15歳の少年」。しかし、彼は「他人との距離の取り方」に関しては天賦の才を与えられていた。否、それは「与えられた」ものではなく、六軒島という特別な環境で彼がその能力を獲得したのかもしれない。何れにしても、その能力は彼に有形無形の恩恵をもたらし、留弗夫自身もその恩恵を最大限に活用して良好な人間関係を築いてきたことは間違いのない事実だった。
小学校の時からの留弗夫の親友は、彼をこう評する。「末は政治家か詐欺師だな」と。
その言葉が、右代宮留弗夫という少年のキャラクターを一番的確に捉えていた。ちなみに留弗夫自身も、その言葉に苦笑しながら頷いている。
そんな彼だったから、学校内では男女を問わず友人に恵まれており、何時も彼の周りには人がいた。「右代宮留弗夫と一緒にいれば楽しい。孤立することもないし、少なくとも損はしない」と、大人が考えるよりもずっと計算高い15歳の少年少女たちは算盤をはじく。彼らの中には、決して少なくない数の者が「右代宮」という名前のみに惹かれていることを留弗夫も当然知ってはいたが……それも含めて彼は「友人」と断言する。計算ずくで接しているのは自分も同じことだからと割り切っていたし、何よりそのことを口にして表面上の人間関係を壊すのは愚かしいことだと、まだ15歳でしかない少年は既に達観していたのだった。
―――そんな大人びたところも、同世代の少女には相当に魅力的に映るのだろう。
退屈な授業を終え、既に西に大きく傾いた太陽をしかめっ面で睨みながら校門を出てゆく留弗夫。
隣を歩くのは、留弗夫を「政治家か詐欺師になる」と評した少年。この少年は、留弗夫にとって損得勘定抜きで付き合える数少ない友人のひとりだった。だから留弗夫も、何時もよりは年相応に幼い表情を見せて、ふざけ合いながら港へと足を運んでいた。留弗夫は船を使わなければ帰れない六軒島という遠い家に不満をこぼし、隣の少年がそれを笑いながらなだめる……彼らは港までの短い帰り道で、そんなやりとりを飽きもせず繰り返すのだった。

「あ、あの……右代宮くん?」
「キミは………?」

そんな他愛もない2人のやり取りの中に、ひとりの少女の声が重なる。
留弗夫はそれまでの素顔をさっと隠し、着け慣れた「仮面」の表情でその少女に向き直った。この子何ていう名前だったっけ、という疑問は勿論、口にも表情にも出さない。少女は緊張した面持ちで何度か浅い呼吸を繰り返した後……熱を帯びた口調で留弗夫にこう告げる。
―――それはお決まりの展開。留弗夫にとってはもう何十回も繰り返され、いい加減うんざりするほど同じ言葉を告げてきたシチュエーション。欠伸を必死に噛み殺しながら、留弗夫は少女の次の言葉を待った。隣の少年も、「こいつは仕方ねえなあ」と口に出さずに苦笑している。


「あ、あの……私、右代宮くんのこと好き。だから……付き合ってくれませんか?」
「ごめん。俺、他に好きな人がいるから」


ただ、飽きるほど同じシチュエーションを味わってきた留弗夫の口から出たのは……飽きるほど同じ「何時もの決まり文句」ではなかった。
だから隣の少年も意外そうに留弗夫の横顔をまじまじと覗き込んでしまったし、一瞬で恋心を砕かれてしまったその少女も、あまりに予想外の振られ方に茫然と立ち尽くすことしかできなかった。

「用はそれだけ? それじゃ、もう船が出ちまう時間だから。バイバイ」
少女の返事も待たずに、留弗夫は再び港への道を歩き始める。友人が一歩遅れて、慌ててついていく。振られたその少女は、まだ固まったままのようだ。
「おい留弗夫、今のは何だよ? オマエ、何時の間に好きな子ができたんだよ?」
「ん~? まあな。片思いだけどな」
「今まではずっと、誰から告られても『今は誰とも付き合わない』つって断ってたから……今のはマジでびっくりしたぜ。そんで、誰なんだよ? 同じクラスの子か? 他のクラスの奴か? それとも」
「あ~、もう船が出ちまう! 続きはまた今度な? んじゃな伊知郎!」
「おい留弗夫! ……あ、行っちまったよ。
それにしてもアイツ、何時の間に好きなヤツができたんだ………?」

首を捻りながら、伊知郎と呼ばれた少年……前原伊知郎は、港への道を駆け出した留弗夫の背中を見送った。そういえば最近のアイツは前より本音で語ることが多くなったな……と、最近の留弗夫の変化を興味深く思い返しながら。
右代宮留弗夫という少年の変化。その理由は――――




六軒島の花嫁

第十二話「恋心」







「ただいまっス! 夏妃姉さん!」
「……あ、おかえりなさい、留弗夫くん」
乱暴に扉を開け放ち、靴を脱ぎ捨ててリビングに駆け込む。
今日もまた退屈な授業を乗り切った安堵感と、一秒でも早くこの人の「おかえりなさい」を聞きたくて。そしてその目的が達せられたことに、彼は会心の笑みを浮かべた。一日の疲れまでも吹き飛んでしまうような充実感に、この場で歌い出しそうになるのを何とか堪える。にやにやと含み笑いを噛み殺しながら、ソファにどすんと腰を下ろす。
それらひとつひとつの動作は大仰で、他の人間がやると嫌味に見えてしまうものだが……留弗夫がやるとそれが不思議と絵になった。夏妃もその芝居がかった仕草にくすくすと笑みをこぼし、そして夏妃の隣で紅茶を嗜んでいた蔵臼は、うるさい弟の帰宅に不機嫌そうに腕を組み直した。面白くなさそうな兄の表情を見て、吹き出しそうになるのを何とか我慢する留弗夫。
……家に帰ることがこんなに楽しいと感じられる日が来るとは、留弗夫自身夢にも思っていなかった。
今まで、彼にとってこの島は単なる檻に過ぎなかった。成人して独り立ちするまで、自分を閉じ込め縛りつける檻。蔵臼はもう、成人して何時でもここを出ていくことができる。それは確かに右代宮金蔵の呪縛から逃れ得ることと同義ではないとしても、それでも物理的には離れることができる。絵羽もあと1年もすれば受験があり、大学に進学しこの島を離れられる。
それに比べて自分は、少なくともあと3年か4年はこの島に縛りつけられることになる。何の楽しみも娯楽もない、鬼よりも厳しい父親が居座るこの島に、あと何年も!! そのことを考えると彼は目の前が真っ暗になったし、一日でも早くこの島から逃げ出したい……彼は何時しか、暇さえあればそう考えるようになっていった。右代宮夏妃という女性に出会うまで。

「……あ、もう夕食の時間ですね。お腹すいたでしょう? 今日は私が夕食の支度を手伝ったんですよ? 鶏のから揚げとかれいの煮着けです。楼座ちゃんもお腹をすかせて待っていると思いますから。手を洗ってきたらすぐに食堂に来てくださいね」
「マジで!? やった!! 姉さんの手料理とか夢みたいだ!」
「そんなに喜んでもらえると恐縮してしまいますね。留弗夫くんの口に合えばいいんですけど」
「そんな、どっかのアホバカ亭主じゃあるまいし、間違っても夏妃姉さんの料理にケチをつけたりしませんよ~」

……勿論、留弗夫は知っている。
自分の妻に馴れ馴れしく話し掛ける不埒な弟をじいっと睨みつける、兄の存在に。

「ほう? ……それでは是非、その『アホバカ亭主』が誰なのかを教えてもらいたいものだな。そして実の兄には『ただいま』の一言もないのか留弗夫?」
「そんじゃ俺、手を洗ってきますね! う~、マジで楽しみ!!」
「無視された!? 実の兄に対してなんだこの仕打ちは!! おい夏妃、きみからも何か言ってくれないか!」
「さあ、早く盛り付けしなくっちゃ♪ 留弗夫くんお腹すいてるでしょうから、大盛りにしましょう」
「あれ!? 夏妃!?」
最初から最後まで無視されまくって涙目の蔵臼を置いて、夏妃は嬉しそうにリビングを出ていく。厨房に行き、夕食の最後の仕上げをするために。置き去りにされた蔵臼はひとり、ぽつんとソファに腰掛けてぶつぶつと独り言を呟くのだった……。



「ふんふんふ~ん、ふ~ん♪」
鼻歌交じりに廊下を歩く夏妃。そのままスキップでもしてしまいそうなほどに、彼女は上機嫌だった。その表情や仕草を見るだけで、今の彼女が精神的に充実していることが見て取れる。台北から帰ってからのこの一週間で、夏妃の料理の腕はめきめきと上達していった。それは源次の厳しい指導の賜物であるのは間違いないのだが……それに加えて、夏妃自身がこれまでよりもずっと、あらゆることに前向きに取り組んでいるという事実もまた大きかった。台北で蔵臼と互いの気持ちを確認できたことが夏妃の精神を安定させ、心の余裕をもたらした。
人間、心に余裕がない時には少し上手くいかなかっただけで精神的に落ち込んでしまい、その落ち込みがさらに新たな失敗を招く……という悪循環に陥りやすいものだが、最近の夏妃はそんな悪循環に陥ることはなかった。勿論今もミスは多く、源次や熊沢からお小言を食らうことは日常茶飯事なのだが、今の彼女はそのミスを引きずらずに次の動作に移ることができた。その切り替えの早さもまた、彼女の心の余裕がもたらしているのだった。「蔵臼の妻として前向きに頑張る」という彼女の姿勢には、源次や熊沢だけでなく、あの金蔵さえも一目置くようになっていた。その事実だけでも、彼女の内面の変化を物語るには十分であろう。

「あらあら、夏妃さまはご機嫌ですねぇ! そんなに楽しそうにされていると、こっちまで歌い出しそうになってしまいますよぉ? ほっほっほ……!」
「あ、熊沢さん……すみません、ついはしゃぎすぎちゃって………」
  
階段を降りたところで熊沢とすれ違い、自分のあまりの浮かれっぷりを恥じた夏妃は慌てて頭を下げる。此処は六軒島で、自分は嫁いだ身。その事実を忘れかけていた自分を戒め、緩みかけていた緊張の糸を結び直すために。
―――しかし熊沢はにこやかに手を振り、気にすることはないと笑う。
「いえいえ、いいんですよ! しゃちほこばるのは、お館さまの前だけで十分ですからねぇ。それよりも、夏妃さまがこの家を自分の家のように思ってくつろいでおられるのを見る方が、ずっとずっと嬉しいんですから」
「熊沢さん……ありがとうございます」

夏妃はもう一度、深々と頭を下げた。熊沢が慌てておやめくださいと言っても……今度は、長い間その頭が元の位置に戻ることはなかった。
今の熊沢の言葉に対してだけではない。台北で、終わりかけていた自分と蔵臼の絆を取り持ってくれたこと。日々の厳しくも愛情にあふれた指導。彼女がいなければ、自分は今こうして蔵臼の妻として居続けることは出来なかっただろう。もう限界だと自分勝手に見切りをつけ、この島を去っていただろう。そして後悔と自責の念に苛まれ、自身の心に大きな傷として残っていたことだろう。
この一ヶ月ほどの短い時間で、熊沢は夏妃にとって大切な恩人となっていた。その感謝の念を示すために、夏妃はたっぷり十秒以上頭を下げ続け……結果、熊沢を大いに困らせるのだった。

「もう、夏妃さまったら……! こんなところを蔵臼さまに見られたら、わたしが叱られてしまいますよぉ? ほっほっほ……!
―――はぁ、楼座さまも今の夏妃さまくらい、明るくなっていただければいいんですけどねぇ」
「楼座ちゃん、ですか……?」

思わぬところから飛び出した「楼座」の名前。
それまで朗らかな笑みを絶やすことのなかった熊沢の表情が、さっと翳る。夏妃は怪訝な表情を浮かべ、その先を促す。熊沢はきょろきょろと周囲を見渡した後、言いにくそうに言葉を選びながらぽつりぽつりと語り始めた。

「いえ……蔵臼さまとは最近仲直りされたようで、楼座さまも少し明るさを取り戻したんですけれど………それが絵羽さまにとっては面白くないみたいなんです。勿論、少し小突いたり悪口を言うだけなんでしょうけど……最近、それが酷くなってきたようなんですよ。
幼い楼座さまにとっては、そりゃあ怖いでしょうねぇ。私たち使用人や蔵臼さまの目の届かないところで行われているようで、また楼座さまが塞ぎがちになってしまいましてねぇ? せめて留弗夫さまがかばってくだされば、まだいいんでしょうけど……気付いていらっしゃりながら、見て見ぬ振りをされているものですから、楼座さまがお可哀そうで………ええ、見ていられないんですよ……」
「留弗夫くんが………ですか?」
「……はい」

夏妃は信じられない言葉を聞いたように、熊沢に訊き返す。
何時も冗談や軽妙な語り口で人を和ませる熊沢の声色だったが、この時ばかりは彼女の声からも、憂いと嘆き以外の感情を汲み取ることはできなかった。
―――先刻の留弗夫の表情を思い出す。
「姉さん」と屈託のない笑顔で自分を慕ってくれ、何時も周りを楽しませる太陽のような少年。自分には弟はいないが、この島に来て留弗夫が(義理とはいえ)弟になるということを知った時は嬉しかった。夏妃にとって右代宮留弗夫という少年は、隠れて幼い妹を傷つけたり、傷つけられた妹に手を差し伸べない人間にはとても思えなかった。
確かに、以前楼座は言った。「絵羽や留弗夫にいじめられても助けてもらえない」と。しかし、普段の留弗夫の言動からは、そんな兆候などまったく感じ取ることの出来なかった。何かの間違いではないか。夏妃は無意識のうちに、留弗夫を庇っていたのだ。しかし今の熊沢の言葉はそれを否定するもので……夏妃は深く落胆した。
しかし……と夏妃は軽く頭を振り、自らに言い聞かせるように強い調子で答えた。

「そう、なのですか………。分かりました。
熊沢さん、話していただいてありがとうございます。私の方から留弗夫くんと話してみます。熊沢さんから聞いたということは、もちろん秘密にしますから」
「夏妃さま………よろしくお願いします」
先刻とは逆に、熊沢が深々と頭を下げる。夏妃はこくりと頷くと、それまでとは違うしっかりとした足取りで厨房へと向かった。後で留弗夫と話し合おうと、凛とした決意を胸に。大切な「弟」と「妹」のために。
――自分が出ていった後のリビングで起こった出来事など、知る由もなく。



「『アホバカ亭主』か………留弗夫のヤツめ、痛いところを突く…………」
先刻弟から放たれた悪態に苦笑してから、蔵臼はグラスの中身をぐいっと飲み干した。夕食前にウィスキーの瓶を開けるなど、夏妃に知られたらまた叱られてしまうなと思いつつも、この習慣はなかなか止めることはできなさそうだと蔵臼は心の中で妻に詫びた。
………習慣とはいっても、長年積み重ねたものではない。この春に日本に、六軒島に戻ってから始まった蔵臼のささやかな楽しみ。
グラスの半分ほどに注がれたウィスキーを、ストレートでちびりちびりと嗜む。夏妃がこの島に来るまでは寝る前に行っていたのだが、寝室を共にする今はこうして、彼女の目を盗むようにして夕食前にも関わらず瓶を開けている。
―――身も蓋もない言い方をするならば、「酒でも飲まないとやっていられない」というものに過ぎない。常に金蔵の一言一言に怯え、罵倒され蔑まれる毎日の中で彼が見つけた、ささやかな息抜きの時間。夏妃にそれを告げればきっと理解を示してくれるとは思うが、彼女に弱い部分を見せたくないというプライドが未だに残っている彼は……こうして隠れるようにして己の趣味を堪能し続けているのだった。
しかし、今日のウィスキーの味は……何時にも増して、苦いものだった。
彼の弟が何気なく告げた一言が、見えない棘のように蔵臼の喉に突き刺さっていた。どれだけ喉を潤してもその棘が抜けることはなく、ちくりちくりと弱々しい痛みを与え続けた。
「まだ俺は………つまらないプライドを、全部捨てきれないのか。夏妃の……彼女の前でも」
そう呟いて、蔵臼は残っていたグラスの中身を一気に呷った。空きっ腹にダイレクトに届くアルコールの刺激は、酔いよりも不快感をもたらす。少しだけ大きな音を立ててグラスをテーブルに置きながら、蔵臼はそのまま背中をソファに預けるように倒れ込んだ。
そして考える。夏妃のことを。自分のことを。台北から戻ってからの日々を。
―――あの旅行は、確かに意味のあることだった。バラバラに壊れかけた自分と夏妃の絆は、あの夜、また新たに結び直された。そのきっかけをくれた南條と熊沢には、どれだけ感謝してもし過ぎることはないだろう。あの夜、自分は誓った。夏妃を愛することを。始まりは歪な形の結婚であっても、その道の歩み方は選べるはずだ。そして自分も夏妃も、手を取り合って生きることを選択した。そのことは、一生忘れることはない。
しかしそれでも、この島に、日常に戻ってしまえば……自分自身男として、夫として成長できているのかたまらなく不安に思ってしまう。勿論、旅行に行く前とは彼女への接し方は全く違うし、彼女のことを第一に考えていると胸を張って言える。夏妃とも時々喧嘩はしても、すぐに仲直りできるし、その度にふたりの絆が強くなっているという実感もある。
あの旅行から戻ってきてから、何もかも順風満帆。絵羽が未だに夏妃を嫌っていることも、何時かは時間が解決してくれるだろう。今、自分は幸せの絶頂にいる。
そのはずだ。
そうでなければならない。
それなのに、何故自分はこんなにも不安なのか。
夏妃に隠れるように、酒に逃げているのか。
………母の変わり果てた姿が、夏妃の笑顔に重なってしまうのか。

「―――――――――!!」

人の気配に、蔵臼はその身を固くした。
ソファに倒れ込むようにもたれた体勢を立て直し、その気配の主に失礼のないように座り直した。誰の気配か、振り向かずとも分かる。この10年間、全く変わることのない威圧感を嫌というほど浴びせられてきたのだから。
蔵臼はそれまで緩み切っていた頬を引き締め、静かに問う。父親と視線を合わせることもなく、ソファに腰掛けたまま。

「………………何か御用ですか、父さん」
「ふん……………何だその覇気のない声は。すっかり女房の尻に敷かれたか? あの娘、見かけによらず性根が座っているようだ。オマエなどより、余程次期当主に相応しいのではないか? くっくっくっく……!」
「―――――そうですね。俺もそう思います」
「蔵臼………?」

ほんの少しだけ、金蔵の感情が揺らぐ。そんな僅かな変化でさえも、手に取るように蔵臼は感じ取ることができた。金蔵が蔵臼のことを監視しているのと同じように……蔵臼もまた、見ているのだから。父親のことを。
眉をぴくりと動かして、身じろぎひとつしない息子の背中を値踏みするように凝視する。蔵臼が「そんなことはない」と慌てて言い繕う姿を予想していた金蔵は、つまらなそうに鼻を鳴らしてその背中から視線を外した。
そして、本題を告げる。今の蔵臼の態度が気に入らないらしく、その口調は何時もにも増して刺々しいものだった。
「…………これから、また東京に行く。今度の敵は手ごわいのでな、キサマを連れていく余裕などない。来週には帰ってくる予定だ。それまでに、披露宴の客に出す招待状でも書いておけ。くれぐれも右代宮家の名に傷をつけるような、みっともない招待状を出すのではないぞ?」
「――――――はい、分かりました」

従順なその声色に満足したのか、金蔵は笑みを浮かべながら帽子をかぶった。その一歩後ろには、当たり前のように旅行鞄を抱えた源次が控えている。そして「行ってくる」の一言もなくリビングを後にしようとする金蔵の耳に………蔵臼の微かな声が届いた。
「時間があったら…………母さんの見舞いに行ってあげてください」
「…………………………………ふん」
また不機嫌そうに鼻を鳴らし、今度こそ金蔵はリビングを後にした。自分に指図する息子のことなど、まるで眼中にない様子で。
やがてばたんという音が聞こえ、この屋敷の主の気配は完全に消えた。それを確認し、ほうっと息を吐いた蔵臼。何時の間にか握り締めていた拳をそっと解き、深呼吸をしながら立ち上がる。
そろそろ夕食の支度が終わる頃だ。最近、夏妃の料理も少しはマシになってきたようだ。今日は少しくらい誉めてやろうか。いや、あまり甘やかすとよくないと源次さんに言われたことだし、ここは敢えて厳しく言ってやらねば。しかしそれで一昨日のように機嫌を損ねられるのも困る。さりげなくフォローを入れてやるくらいでちょうどいいのだろうか? うーむ、こんな時留弗夫の口の上手さが妬ましいな。あいつは俺たち兄弟の中で一番口が達者だからな…………


最後まで父親は、息子の背中しか見なかった。
最後まで息子は、父親と視線を合わせようとすらしなかった。




「あ~、もう動けね………ちょっと、食い過ぎちまった、みたい…………」
「ふふふ、そりゃあ3杯もお代わりするんですもの。
留弗夫くんがあんなに食べるなんて知りませんでした。ほら、ゆっくり飲んでくださいね?」
「あ、すんませ~ん………あ熱ちちちちち!!」

ティーカップになみなみと注がれたコーヒーを飲み干そうとして、思い切りティーカップを鷲づかみにする留弗夫。耳たぶを掴みながら、涙目でふーふーとコーヒーを冷まそうとしている。その仕草の一つ一つが喜劇役者のようで、夏妃は思わずくすりと微笑んだ。わざとやった甲斐があったと、留弗夫は心の中でぺろっと舌を出すのだった。
夕食後のひと時。
主である金蔵が不在の為か、隙あらば夏妃に難癖をつけようとする絵羽の帰りが今日は遅いからか――恐らくその両方だろう――この日の夕食は、終始和やかな雰囲気のまま終えることができた。学校の宿題があるという楼座は食後のデザートもそこそこに自室へと戻り、夕食の間中何処か上の空だった蔵臼も、今日中に片付けなければいけない案件があるからと書斎に引きこもってしまった。
というわけで、食後のコーヒーをゆっくりと嗜んでいるのは、夏妃と留弗夫の2人だけ。留弗夫にとってはまさに、願ったり叶ったりの展開である。夏妃にとっても、先刻のことを話す絶好のタイミングに思えたが……今はやめようと自重する。万が一誰かが入ってきたら困る。留弗夫とは、誰にも邪魔されない時に腹を割って話をしたかったから。
だから話題を変えようと、夏妃は明後日の方向を向きながら思い出したように。

「蔵臼さん……どうかしたのでしょうか。何処か、元気がないように見えましたが」
「ん~? 気にすることなんかないって! どうせ親父にこってり絞られただけだよ!」
夕食の席で蔵臼が浮かない表情を浮かべていたことを心配する夏妃に、留弗夫は少しだけ大きな声で応える。それでも思案顔を崩さない夏妃に少しだけ苛立ちながら、留弗夫は唐突に切り出した。
何か考えがあってのことではなく………咄嗟に、瞬間的に。
「自分を見てほしい」その言葉を告げる代りに。

「あのさ、夏妃姉さん……明日の土曜日、ちょっと本土の方の買い物に付き合ってくれないかな? 
バカ姉貴の誕生日が来週だからさ、何かプレゼント買いたいんだけど………俺、女物に詳しくないからさ。 弟を助けると思って……お願いします!」
「明日、ですか……………? 私よりも冬花さんの方が、そういったことは詳しいのではありませんか? あ、明日が非番だったかどうか分かりませんが「あ~! 明日は冬花さん、プライベートな用事があるから駄目なんだって断られちまったんだ。だから、さ……いいだろ? 若い女の人って後は姉さんしかいないからさ……お願い!」

両手を合わせ、拝むようにして夏妃に頭を下げる留弗夫。
夏妃としても、蔵臼からの許可さえ得られるのであれば留弗夫の頼みを断る道理など無い。誰かに頼られて悪い気など起きようもないのだから。そして自分としても、たまには島の外に出たいという気持ちもあったし……何より、留弗夫に例の件を話す絶好の機会に思えたから。
だから夏妃は、にっこりと微笑む。「蔵臼さんがいいと言うなら、明日は買い物に付き合いますよ」と。
「やった~! 夏妃姉さん、約束だからな!」
そう小躍りしながら食堂を去っていく留弗夫。その背中を見送りながら、夏妃は決意した。
明日、留弗夫ときちんと話そうと。自分は楼座の姉であり、留弗夫の姉なのだ。逃げてはいけない。右代宮留弗夫という少年を、もっと深く知らなければならないのだ。




「はあ……それでは私は用事があることにして、明日一日身を隠せばいいのですね? 明日は、普通にお勤めがあるんですけど私……はぁ。
………分かりました。留弗夫さまのお願いでしたら仕方ありませんね。でも、今回一回限りですよ? 何しろ、これから源次さまに明日の休みをいきなり貰いにいかなければならないんですからね? これがどれだけ大変なことか………はぁ」
「ごめん! マジでごめんよ冬花さん! あの時はああ言うしかなくってさ……この埋め合わせは必ずするから!」
―――先刻から、もう2ケタ回数は超えているだろう。冬花がついた、溜め息の数の話である。
今日の仕事を終えて控え室に戻ろうとする冬花を拉致するように連れ去り……薔薇庭園の前でようやく解放した留弗夫が告げた自分勝手極まりない頼み事に、冬花は呆れたように息を吐いた。
そして、「明日は使用人の仕事を休んで、プライベートな用事があることにして身を隠してくれ」という無理難題に頭を抱えたのだった。勿論、先刻留弗夫が夏妃に言った「嘘」を「真」にするための工作である。事前に知らされていたならともかく、明日の休暇を前日の夜に申請するという暴挙に使用人の長である源次がどんな反応をするのか……想像しただけで冬花の全身からは冷や汗が溢れ出た。
それでも、日頃から親しくしている留弗夫の真剣な頼みを無下にすることは、冬花には出来なかった。やるだけやってみると苦笑しながら頷いた後、その表情はやはり引きつっていたが。
「ありがとう! ありがとう冬花さん!! いよっしゃあ! 明日は一世一代の勝負だぜ!」
「…………………………………」
腕まくりをして、明日の夏妃とのデートに気合を入れる留弗夫。そんな留弗夫を、冬花は訳の分からないものを見るような目で眺める。
冬花には、留弗夫の気持ちが理解できなかった。
彼が何をしようとしているかは、はっきりと分かる。
彼が何故そうしようとしているのか、さっぱり理解できない。
だから冬花は、留弗夫に訊く。

「あの……留弗夫さまは、夏妃さまのことが……」
「―――ああ、好きさ。
こんな気持ちになったことなんて、今までなかった。多分、これが俺の初恋ってことになるのかな。15で初恋って、遅いんだろうけどな。いっひっひ……! ところで冬花さんの初恋って、いくつのことだったんだい?」
「初恋、ですか。それは―――――――――」

今、この瞬間も。
彼女の初めての想いは、今も。
届くこともなく、消え去ることもなく、彼女の胸の中で大きな根を張り続けたままで。
『蔵臼さん』
その想いは、決して許されない感情。
使用人と、右代宮家次期当主。叶わない想い。自分ごときがあの方の隣に並ぶなど、決してあり得ないこと。そんなことは分かっている。あの方への想いを自覚してから、何万回自分に言い聞かせてきたことだろう。その度に締め付けられる胸の痛みに、どれほど堪えてきたというのだろう。何時になれば終わるのだろう、この痛みは。この苦しみは。
『蔵臼さま』
それでも……それでも。
初めてあの人を「蔵臼さま」と呼ばなければならなくなったあの時の痛みは……これまでのどんな痛みよりも………大きかった。そう、大きかった! 
あんな痛みをこれからずっと味わわないといけないのなら、もういっそこの島から離れてしまえば! もう十分にひとりで生きていけるだけの蓄えもできた。自分はまだ若い。贅沢さえしなければそれなりの仕事に就き、それなりの男性と出会い、それなりの幸せを掴めるだろう。この島から離れれば! あの方から………蔵臼さんから離れることができれば!!

「できない………私には………できない………………!! 蔵臼さんから、離れることなんか……できませんっ………!!」

「……そっか。冬花さんにとっては、兄貴が初恋の相手だったのか。
お互い、叶わない恋をしてるよな。俺も、冬花さんも」
「分かってらっしゃるのなら……それなら!!」

縋るような声で、冬花は留弗夫に詰め寄った。
自分が何を言いたいのか。留弗夫に何を言って欲しかったのか。今の彼女は、何も考えることができなかった。唯、彼女の脳裏に鮮やかに思い出されたのは……幸せそうに微笑む蔵臼。そして、彼の隣に寄り添う夏妃。彼の妻。冬花が血を吐くような思いで望んだ居場所を、あっさりと手に入れた女性。
憎いのではない。
妬ましいのではない。
ただ、彼女は悲しかったのだ。

「留弗夫さま………負けると分かっている勝負を……叶わないと分かっている願いを……何故、されるのですか? ご自身が、傷つくだけではないですか………?
夏妃さまは、蔵臼さん………いえ、蔵臼さまの奥さまでいらっしゃるのですよ? 次期当主の奥さまです。留弗夫さまに心を奪われることなど、決してありません! 
先日の旅行から戻られてから、おふたりの絆はますます揺るぎないものになっています。留弗夫さまの入る隙など、何処にもありはしません!! 
あのおふたりは、お幸せなご夫婦なんです! 
留弗夫さまは、留弗夫さまは……諦めるしかないんですっ!!」

「それは、俺のことを心配してくれてるのかな? 
それとも……冬花さん自身のことを言ってるのかな?」
「――――――――――――ッ!!」


留弗夫の短い言葉が、冬花の心を粉々に砕く。
見透かされた。何もかも見透かされていた。この聡明な少年に。
「あのふたりは幸せな夫婦」
「立ち入る隙など何処にもない」
「諦めるしかない」
それはすべて、自分自身に放った言葉。留弗夫に届けるつもりで、自分自身に言っていただけの言葉。
己の一番醜いところを見られた気がして……冬花は恥辱のあまりその場に顔を真っ赤に染めて、その場に崩れ落ちた。

「う、う…………うああああああああああああああああああああ!!」

ぼろぼろと涙をこぼしながら、何度も何度も地面を叩く。
留弗夫が憎いのではない。
自分自身が憎いのだ。
他人の心配をする振りをして、自分自身に言い聞かせていただけの自分を見透かされたことが。
そして、どうしようもない自分の気持ちにも、また気付かされて……冬花は痛かった。
心がきいきいと、悲鳴を上げようとしていた。
そんな冬花に手を差し伸べることもなく、留弗夫はぽつりぽつりと囁くように言葉を向ける。彼女の手を取るべき人間は此処にはいないことを、否、何処にもいないことを彼自身も痛いほど理解していたから。


「―――恋心って、辛いよな。俺も、ずっと兄貴のこと見てきた冬花さんのこと、正直バカだって思ってた。次期当主と使用人、幸せな結末なんてあるわけない、って……俺、冬花さんのことバカにしてたんだ。でも、夏妃さんに出会って……俺もその『バカ』なんだってことがよく分かった。
自分でも、何で夏妃姉さんのこと好きになっちまったのか……今でも分かんねえ。女なんて学校にもいくらだっているし、俺なんかを好きになってくれる子だって、それなりにいるってのに……よりによって、兄貴の嫁さんを好きになっちまうなんて。何てバカなんだって、自分を責めたさ。夏妃さんは他人の嫁さん。好きになっちゃいけない人なんだって、何度も何度も言い聞かせたさ。
でもさ……この前旅行から帰って来た夏妃さんを出迎えた時、俺、もうこの気持ちを否定したくないって思った。
だって、どうしようもねえんだもん。この気持ち、抱えたままなんて我慢できない。だから俺、夏妃さんに自分の気持ちを伝えたい。いや、伝わらなくってもいい。この気持ちに、ひとつケジメをつけたいんだ。多分、夏妃さんに振られてもこの気持ちが消えて無くなることはないと思う。夏妃さんよりも好きな人が出てくるまでは、俺はこの恋心と向き合っていくしかないんだろうな。それでも、さ……ひとつ、この気持ちにケジメをつける儀式っつーか、そういうもんが欲しかった。それが明日だと思ったわけさ。そんだけ。要するに、俺の自己満足。この気持ちを置き去りになんてしなかった、俺はケジメをつけた……そういう実感が欲しいだけなんだ。いや、錯覚、かな?
な? 綺麗でも何でもないだろ? ただの俺の自己満足なんだから。でも、俺には必要なことだって思った。何しろ、夏妃さんとはこれから何十年も『姉と弟』の関係を続けなきゃいけねえんだもん。それに俺、こう見えても兄貴のことも好きだから。兄貴と夏妃さんが仲良くしてるのを見るの、結構好きだったりするんだ。な? 面倒くせえだろ? この恋心をどうにか、綺麗に埋葬しなきゃいけないわけさ。ゾンビみたいに復活しないように。明日は、その第一歩ってところかな」
「―――――――――私は」


どうすればいいのですか。
こんなに、あの人のことを想っているのに。
「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」「蔵臼さん」「蔵臼さま」
―――この気持ちは、どうすればいいのですか。


「………そんなもん、俺は知らねえよ。
兄貴を好きになったのは、俺じゃない。冬花さんだ。自分が後悔しないように、自分で選択して行動すればいいんじゃねえのか? 次期当主とか使用人とか、結婚してる相手だとか……色んなしがらみはあるだろうけどさ、自分のやりたいようにするしかないじゃねえか。
まあ、あんたの恋心がそのままにしてれば黙って死んでくれるっていうなら、そのままにしておくのもいいんじゃないか? 俺が見る限り、とてもそうは見えないけどな」

そこまで告げて、留弗夫は踵を返した。
「明日の件よろしく」と、背を向けたまま冬花に告げる。
その言葉が冬花に届いているのかは、分からなかった。
涙と泥に汚れた顔を夜空に向けても、誰も、何も答えてはくれなかった。





「あ~、買った買った! ほら夏妃姉さん、しっかり持たないと落としちまうぜ~?」
「はあ、はあ、はあ………ちょっと、留弗夫くん、待って………くだ、さい…………何か最近、荷物持ちばっかり、させられてる気、が……はあ、はあ……」
両手いっぱいに抱えた紙袋を落とさないように、荒い息を吐きながら人込みをくぐりぬけてゆく。留弗夫も同じように買い物袋を幾つも抱えているというのに、まったく息を弾ませることもなく悠々と先を歩いてゆく。これが若さというものかと、まだ20歳を超えたばかりの夏妃はずーんと効果音が出そうなほどに落ち込みながら留弗夫の後を追った。
さすがに土曜日ともなると、学校帰りの学生たちの歓声で、街は賑やかに彩られている。夏妃にとっては初めて訪れる街ではあったが、活気のある様子にその顔を綻ばせたのだった……最初のうちは。
「はあ、はあ、まったく、留弗夫くんったら……よくも、騙しました、ね………! 
絵羽さんのための買い物だなんて、嘘ついて……! 全部自分のための買い物じゃ、ないですか………!」
「はあ、夏妃姉さん……駄目だな。ああ、全然駄目だぜ。そんなお人好しだと、何時か悪いヤツらにころっと騙されちまうぜ~? 兄貴もああ見えて、間の抜けたところがあるから……詐欺師みたいな連中のうまい儲け話に騙されやしないかと、弟の俺としては心配なわけさ。
ま、今日はそのレッスン1ってことでね。逆に感謝してほしいくらいだぜ~?」
口の減らない憎らしい弟にこれ以上付き合ってやるものかと、夏妃はぷいっとそっぽを向く。絵羽の誕生日プレゼントのためだと言うから、蔵臼からもある程度の現金を受け取って来たというのに……自分が何も知らないのをいいことに、留弗夫は自分の洋服やらレコードやらを買い漁るばかりで、一向に絵羽のプレゼントを買おうとはしない。夏妃がおかしいと思った時にはすでに手遅れで、留弗夫に大量の荷物を持たされてのろのろと亀のような歩みを余儀なくされていた。きっと他人から見たら、自分はお坊ちゃんの荷物を抱えた使用人に見えることだろう。
「そんじゃ、船の時間までもうちょい時間もあることだし……此処で時間を潰していこうか?」
「………………………」
仏頂面のまま、こくりと頷く夏妃。その申し出を突っぱねるほどには、彼女自身の体力に余裕は無かった。おお怖い怖いと肩を竦めながら、留弗夫はカランカランと音を立てて喫茶店に足を踏み入れた。

「ほら、夏妃姉さん………何時までもしかめっ面してないで、さっさと座んなよ。せっかくの別嬪さんが台無しだぜ~?」
「しかめっ面にさせたのは誰のせいですか! まったくもう……」

ぶつぶつと愚痴をこぼしながら、やっと両手に抱えた紙袋を下ろすことができた夏妃。ぬけぬけと満面の笑顔を浮かべながらメニューを勧める留弗夫をひと睨みしたが……お人好しの彼女にとっては、そこまでが限界だった。ふっと表情を緩めて無邪気にメニューを眺める留弗夫を好ましそうに眺めてから、アイスコーヒーを注文する。秋も大分深まっているこの季節だったが、さんざん駆けずり回った夏妃は喉が渇いていたのだ。
「それにしても……ずいぶん買い込みましたね。こんなにたくさんの洋服、私だったら10年はもう買わなくて済みそうです」
「え~? 夏妃姉さん、それは大袈裟じゃねえの? だって、休みの日とか遊びにいくから、すぐ新しいの買わなくちゃ追いつかないだろ?」
「私は……休日はほとんど、遊びに出ることはありませんでしたから。
なぎなたの稽古や学校の宿題など、やるべきことがたくさんありまして……遊んだという記憶が、あまりないのです。戦争も終わった直後で、遊ぶ余裕もありませんでしたしね……」
「あ、そっか……俺とかだと、もう戦争のことほとんど覚えてないけど……夏妃さんや兄貴はきっと、大変だったんだろうな………」
「はい、私たちだけでなく、日本中が戦争の深い傷を負っていましたからね……台北で、蔵臼さんから聞きました。当主さまのことも、少しだけ………」
「あの兄貴が………親父のことを?」

留弗夫は、夏妃の言葉に少なからず驚いていた。
子供ながらに、終戦を境に父親である右代宮金蔵が豹変した記憶を持ち合わせてはいるものの、留弗夫や絵羽にとっての父親は「今の」金蔵であることは間違いなかった。しかし蔵臼にとっては、まるで別人のように変わってしまった父親との接し方に苦労したことだろう。
理不尽に暴力を振るわれ、口を開けば蔵臼を罵倒し侮辱さえしたあの金蔵と、出征前の寡黙で心優しい金蔵が(留弗夫はその金蔵との思い出はないのだが)同一人物とは……きっと兄は自分の想像もつかないような苦労を重ねてきたのだろうということは、15歳の留弗夫にも容易に想像し得た。
ただ、留弗夫の記憶の中では、蔵臼はそんな弱音を一切口にすることなどなかった。時に苛立ちの捌け口として自分や絵羽が被害を受けることはあっても、金蔵との関わりについて自ら語ったことなど一度もない。きっと絵羽もそんな経験はないだろう。あの意地っ張りの兄貴が、誰かに親父のことを話した……新鮮な感動と裏腹に、留弗夫は心の中で蔵臼に対する抑え難い嫉妬心が湧き上がってくることを自覚していた。蔵臼にとって、夏妃が特別な存在であることの証明。夫婦なのだから、己の胸の内を吐露するのは当たり前のこと。そんな当たり前の事実すら、今の留弗夫は素直に受け止めることはできなかった。
(ははっ……昨日冬花さんにカッコつけて言ったくせに、全然駄目じゃん俺。
こんなんで、夏妃さんのことちゃんと割り切れるのかよ。ちくしょう!)
―――話題も変わり、最近の流行の話になる。
最新の事情にまるで疎い夏妃をからかいながら、留弗夫は途方に暮れていた。
ますます、夏妃を好きになってゆく自分。彼女の新しい一面を知る度に、自分のものにしたいという欲求は抑え難く留弗夫の心を黒く染めてゆく。
夏妃さんは兄貴の奥さん。
夏妃さんは兄貴の奥さん。
夏妃さんは兄貴の奥さん。
念仏のように唱えても、自分の気持ちは誤魔化せない。そんなもので誤魔化せるなら、最初からこんなに苦しんだりはしない。
留弗夫は苦しかった。「人当たりのいい、お調子者の三枚目」を夏妃の前で演じながら……彼女への秘めた想いを、この1ヶ月あまりずっと抑えつけてきたのだ。「たった1ヶ月?」と鼻で笑う者もいるだろう。そんな人間に恋をする資格など無いと、留弗夫は心から思う。
現に、自分の目の前にいるのだから。
たった1ヶ月の間に、しかも初めて出会った男と心を通わせ……例えすべてではないとしても分かり合うことのできた女性が、今留弗夫の目の前で微笑んでいるのだから。その男が自分ではないことを、留弗夫は心から残念に思う。その反面、夏妃の相手が蔵臼でよかったとも思う。自分の心がどちらを向いているのかさっぱり分からずに、留弗夫は途方に暮れてしまった。

「あら……そろそろ船が出る時間ですね。さあ留弗夫くん、あとひと踏ん張り頑張りましょう?」
「あ……そうっすね。んじゃ、港まで頑張りますか!」

日もすっかり傾き始めた頃、腕時計を覗き込んだ夏妃が気合いを入れるように力こぶを作ってみせる。そのユーモラスな仕草に吹き出しながら、留弗夫も紙袋を抱えるようにして喫茶店を後にした。
自分の気持ちに、何の整理もつかないまま。





「あ……! あれが帰りの船ですね。やっとお屋敷に帰れますね!」
「夏妃姉さん、嬉しそうっスね~? 可愛い弟とのデートが終わっちまうっていうのに。こちとらちょっと傷ついちまうなァ~!」
「何が『可愛い弟』ですか? まったく、もう……可愛い弟は、姉を騙して荷物持ちをさせて連れ回したりはしませんっ! 
結局絵羽さんへのプレゼント、ひとつも買わずじまいだったじゃないですか。後でどうなっても知りませんよ?」
「あ、それなら大丈夫っス。馬鹿姉貴へのプレゼントは、この前もう調達済みですんで」
「あ、そうですか………」

港に着き、待合室で帰りの船を待ちながら軽口を叩きあうふたり。帰りの船がこちらに近付いてくるのを確認し、再び荷物を抱え上げ船着き場へと足を運ぶ。
「うわあ……綺麗ですね!」
「でしょ~? 此処、俺のお気に入りポイントなんだ。此処で夕焼けを眺めるの、俺大好きなんです。そのせいで船を乗り過ごしちまったことも何度かあったりして……いっひっひ!」
「くす……! 留弗夫くんはロマンチストですね。でも、帰りの時間が遅くなるのは駄目ですよ? 皆さん心配しますからね?」
日も沈みかけ、夕焼けが水平線の上で美しく浮かび上がっていた。そして、六軒島で見るものとはまた違って見えるその夕焼けに、夏妃は言葉を忘れて見入ってしまう。そんな夏妃の横顔に見惚れながら、留弗夫はぽつりと呟く。

「また、こんな風に……2人で出かけてくれますか?」
「ええ、構いませんよ。………これからは、お兄さんとして楼座ちゃんを守ると誓ってくれるなら」
「え………!?」

思わぬところから飛び出した「楼座」の名前。
しかしその名前が出ることに心当たりのある留弗夫は、観念したように夏妃を真正面から見据えた。夏妃も、今日これまで見せたことない固い表情で、留弗夫から目を逸らさない。
これまで自分が楼座にしてきたこと。勿論幼い少女相手だから、殴ったり蹴ったりといった暴力は振るってはいない。しかし、かつては頭を叩いたり、威圧的な態度で彼女が怯える様子を楽しんだり………それは確かに「いじめ」であり、その事実を弁解する気は留弗夫には無かった。夏妃と出会ってからはそういった行為は慎んでいたものの、絵羽の行動に見て見ぬ振りをしていたのは否定できない事実だった。
「自分も蔵臼に苛められてきた」「絵羽の方が酷いことをしている」それは唯の言い訳。否、自分の罪を他人になすりつけるだけの、最も卑怯な逃げ道。少なくとも夏妃の前で、そんな醜態を晒したくはなかった。
だから留弗夫は夏妃から視線を外し、頭を下げるような姿勢を取った。彼女が、自分の頭や頬を……叩きやすいように。
しかし、夏妃の手が留弗夫に振り下ろされることはなかった。
数十秒間続いた沈黙に、留弗夫は怪訝な顔で夏妃の真意を窺う。そして……ふうと小さな息を漏らした夏妃は、優しく留弗夫の頭を撫で始めた。全く予期しなかった夏妃の行動に、目を白黒させる留弗夫。

「へ……!? 夏妃……姉さん…………?」
「―――誰だって、間違いを起こします。私も、この島に来てから間違いを犯しました。
蔵臼さんのことを知ろうともせずに、ただ自分の気持ちだけをぶつけて……突然の結婚に戸惑ったのは、蔵臼さんも同じことなのに。自分だけが悲劇の主人公なんだと思い込んで、すべてをこの島や右代宮家のせいにして………楽になろうとしました。それは紛れもない、私の罪です。
でも、蔵臼さんは―――いえ、この島の皆さんは、もう一度私にチャンスを与えてくれました。だから私は、あの過ちを償うために、そして蔵臼さんと幸せになるために努力します。だから、留弗夫くんが楼座ちゃんに申し訳ないと思うのなら……これからの留弗夫くんの行動で、それを示してください。楼座ちゃんに、そして私たちに」
「はい………分かりました、夏妃………………姉さん」

ああ、そうか。
留弗夫は、やっと理解した。
何故、自分は夏妃に惹かれたのか。



「夏妃姉さんは………おふくろに、そっくりなんだ………」
「それは、嬉しいですね。蔵臼さんやあなたのお母様なら、きっと素晴らしい女性に違いありませんから」



物心ついたばかりの頃、よくこうして母親に頭を撫でられたっけ。
正気を失くす前の、優しかったあの母親に。
どうして忘れてしまったのだろう。あの穏やかな微笑みを。小さくとも温かな、あの手のひらの感触を。泣けるほどに懐かしい、幼い日の宝物を。
自分は、夏妃の中に母親を求めていたのかもしれない。もう自分を認めてくれなくなった母親の代わりを、夏妃に求めていたのかもしれない。初めて会ったときから、夏妃は自分を誤魔化したり、偽ったりしない人だった。自分の言いたいことを言い、剥き出しの感情をぶつける……そんな夏妃の性格は、彼らの母親にそっくりだった。
右代宮初音。
微かにしか残っていない記憶を、留弗夫は必死でかき集める。その記憶のカケラの中にも、確かに「それ」はあった。
「右代宮金蔵の影に隠れ、つつましく生きた女」そんな世間の認識とは、実際の彼女は180度違う人間だったことを、肉親である留弗夫は誰よりも知っていた。そんな彼女と、目の前の姉は重なるのだ。見た目や言葉遣いではなく、生き方が。
勿論、夏妃に対して抱いた恋心の正体がそれのみだったわけではない。夏妃という女性自身に惹かれたこと、これも否定しようのない事実だろう。
それでも、其処に残った恋心は、今日までの狂おしいほどの熱情ではなかった。そう遠くない日に思い出に変わり、笑い話に変えられるものなのだろう。少しずつ冷静さを取り戻した留弗夫は、自分でも驚くほど自分の感情を分析することができた。
―――そしてそれは、ひとつの恋の終わり。何処かで誰かと新しい恋を始める為の、古い恋の終わり。
(兄貴………いい嫁さんもらったな。絶対に不幸にするんじゃないぜ? 油断してたら、この俺が横取りしちまうからな?)
心の中で、そう蔵臼に呼びかけた留弗夫。その表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
そして、彼は心の中で呼び掛ける。
彼と全く同じ境遇に置かれた一人の女性が、昨日初めて見せた、あの涙に。
『冬花さん……あんたは、どうするんだ?』



最後にもう一度頭を撫でられた後、やっと夏妃から解放された留弗夫。照れくさそうに頭をかきながら、はにかむような笑顔で頭をかいた。
夏妃も、慣れないことをしたのか少しだけ顔を赤らめている。今は……からかうのは止めておこう。こんなに綺麗な夕焼けだから。こんなに素敵なひと時だから。

「そんじゃ……船も着いたことだし、帰りますか、夏妃姉さん!」
「はい、留弗夫くん」
勢いよく荷物を抱え、夏妃に呼びかける。夏妃も、笑顔で応える。
留弗夫に続いて、六軒島へと帰るための船に乗り込もうとする夏妃。
彼女の目に映るその背中は、力強く歩む留弗夫の背中は………昨日よりもほんの少しだけ、大きく見えた。





<つづく>






2011.02.03 Thu l うみねこ l コメント (0) トラックバック (0) l top

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