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久しぶりにブログを更新。
六軒島の花嫁第十話です。今回は豚骨ショウガさん書いていただきました。
それではどうぞ。






「――おはようございます、月ノ部(つきのべ)さん」
「――おはようございます、右代宮さん」


其処には、何の感情も感じられなかったから。
彼女は10日前に捨てた筈の名で呼ばれたことにも戸惑うことなく、目の前の青年に向け挨拶の言葉を返した。そしてその挨拶にも、何の感情も込められてはいなかった。
しかし青年はそれをも意にも介さず、右手で抱えていた数枚の便箋をぱらぱらとテーブルの上に置く。既に帰り支度を整えていた彼女――夏妃は、ソファに腰掛けたままその文面を一読すると、おもむろに頭上を見上げながらはあと大きな息をついた。
そして、何時の間にか向かい側に腰掛けていた青年――右代宮蔵臼に小さな声で問う。

「それで……これからどうするのですか?」
「それを、あなたに訊きたかった。
勿論、このまますぐ帰国してもかまわない。あなたが台北をもっと見て回りたいと言うなら、それでもかまわない。お付き合いします」
「……………ッ!」

今いる場所がホテルのフロント前でなかったら、夏妃は大声を張り上げていたことだろう。思わず立ち上がり、拳を握り締めて何かを言いかけた彼女だったが……此処が公衆の面前であることを思い出し、仕方なくソファに腰掛けた。
それからも、今後のことをまるで他人事のように素っ気なく告げる蔵臼を、唇を噛みながら無言で睨みつける夏妃。しかし蔵臼は全く動じた様子もなく、「あの時」と同じように、感情を一切込めずに淡々と同じ言葉を繰り返した。
あの夜の雨の冷たさが、夏妃の脳裏に鮮烈に思い出される。蔵臼に殴られた頬の痛みも、そして、恐ろしいほどに感情を感じさせなかった彼の言葉も。……あの時から、蔵臼は夏妃に対して敬語を使うようになっていた。そして此処、台湾で仕方なく自分を呼ぶ時も「夏妃」ではなく「月ノ部さん」と、彼女の旧姓で呼び掛けるのだった。それは最早、蔵臼自身がこの結婚に何の未練も拘りも持っていないことの何よりの証であったし、夏妃自身にとってもそれは最も望んでいた結果に他ならなかった。
――だから、蔵臼のこの煮え切らない態度に夏妃は苛立ちを隠せなかった。
(どうせ一緒にいたって、楽しめるはずなんてないのに……! どちらにするのか私に決めさせようなんて、何て卑怯なの……ッ!! 日本に帰ったらすぐ離婚するんだから、こんな所に長居したって仕方ないじゃないですかッ……!! まったく、熊沢さんの所為で…………!!)
夏妃は、自分を置き去りにして早々に機上の人となった熊沢へ恨み節をぶつけた。それが全く意味のないことだとは分かっていても、自分たちを散々にかき回していったあの2人を、笑って許すことはできなかった。
彼らが自分たちを心配してくれて、このような機会を設けてくれたことはよく分かる。しかし、どうやら当の蔵臼は自分に謝るつもりもなければ、結婚を続ける気持ちもやはりないようだ。
あの雨の夜に宣言した通り。
ならば、どうして自分から歩み寄らなければならないのか。悪いのは蔵臼ではないか。一方的に自分を妻として迎えておきながら、優しく接することもしてくれず、次の日には何も告げずに出張に出てしまい、戻ってきたと思ったら妻に手を上げる……何と理不尽な仕打ちなのだろう。自分を殴った時のあの「目」……本当に、父親にそっくりだった。あんな人とは、もう一緒に暮らしていくことなどできない。熊沢さん達の気遣いはありがたいけれど、最初から無茶な結婚だったのだ。こんな気持ちを抱いたままで一緒にいても、楽しめる筈もない。だから、もうこのまま日本に帰国してしまおう。後のことは、実家の両親に任せよう………。

「あ、あの、右代宮さん……私はもう、このまま一緒にいても………
って、あら?」

様々な思いを巡らしてから、息を大きく吸って蔵臼にこのまま帰国したい旨を告げようとした夏妃だったが……何時の間にか、蔵臼の姿は目の前から消えていた。
きょろきょろと周囲を見渡すと、当の蔵臼がむっつりと押し黙ったまま不機嫌そうに近付いてくる。苦々しく口元を歪め、吐き捨てるように舌打ちしながら。
夏妃がその理由を尋ねる前に、彼の口が先に開かれた。

「……やられました。
もうこれ以上滞在しても仕方ないと思い、チェックアウトしようと思ったのですが……2日後までの宿泊代を、既に受け取っているとのことでした。しかも、『何を言われても、決して払い戻ししないように』との伝言を預かっているそうです。
まったくあの2人は、どこまで行っても抜け目ない………」
「そう、です、か……………」

南條と熊沢。この2人の用意周到さと老獪さに、苦笑を浮かべることしかできない夏妃。
一方の蔵臼は、憮然とした表情で視線を宙に彷徨わせている。日本に戻ったら南條に何と言って抗議しようかと考えているに違いなかったが……軽く頭を振り、夏妃へと視線を落とす。今度は、何も訊かずに。
夏妃も、もう降参した様子で溜め息を吐くと。

「……仕方ないですね。荷物を部屋に置いてきます。少しお待ちいただけますか?」
「はい………すみません」

頭を下げた蔵臼に微かに肯いてから、夏妃はソファから立ち上がりフロントへ荷物を預けに歩き去った。そのどこまでも他人行儀な言葉遣いに、夏妃自身も気付かないほどの苛立ちを足音に込めて。

蔵臼は、その背中を見送りながら。
そして、夏妃は蔵臼のいた所から大分離れた、フロント受付前で。


「「…………………はぁ」」


2人は、気付くことはなかったが。
その溜め息は、長年連れ添った夫婦にも負けないほどに、息が合っていた。






六軒島の花嫁

第十話「台北ラプソディー」






「うわぁ………綺麗!!」
「ええ、確かに美しい……流石に、台湾随一の美術館と称されるだけのことはあります」

夏妃は勿論のこと、日頃から貴重な美術品に慣れ親しんでいる蔵臼でさえ……目の前に展示された美術品の数々に息を飲み、その眩いばかりの美しさにすっかり魅了されていた。落ち着きなくあちこち動き回り、展示品を納めたガラスケースに貼りつかんばかりに顔を寄せるその仕草は、まるで未知の物体を発見したやんちゃ少年そのものだった。
そんな蔵臼の背中を微笑ましく眺める夏妃だったが、不意に我に返り、自らを戒めるようにぶんぶんと首を横に振ってから次の展示物に視線を送るのだった。
―――此処は、故宮博物院(こきゅうはくぶついん)。
もともとは中国の北京で設立された博物院だったが、第二次世界大戦後に国民党と共産党の内戦から貴重な美術品や文献の数々を守る為に、1948年に此処、台北へと美術品の一部が移されてきた。それから7年、この博物館は今や台北の代表的な観光名所として数多くの旅行者が訪れていた。パリのルーブル美術館、ロンドンの大英博物館、ニューヨークのメトロポリタン美術館と並び称される、世界四大博物館のひとつである。
ホテルに閉じ籠ってただ時間が過ぎるのを待つよりは、せっかく有名な場所が近くにあるのだからという夏妃の提案に押され渋々ながら此処に来た蔵臼だが、内部を見学してみると来てよかったと実感するのだった。例え、このような形であっても。
蔵臼自身、仕事で台湾を訪れたことは何度かあったものの、完全なオフとしてこの場所を訪れたことはなかった。此処に来るまでの間夏妃と一言も言葉を交わさなかったのに、今は嬉々としてその素晴らしさを語り続けている……夏妃は此処に来るまでの道のりを思い出すと、その時とのあまりの落差に思わず呆れたような苦笑を浮かべることしかできなかった。
そして、蔵臼もまた………夏妃に背を向け美術品の数々に歓声を上げながらも、その心のうちでは同じことを思わずにはいられなかった。



―――1時間ほど、時間を遡る。

ブロロロロロロロ………!!
「………………………」
「………………………」
ホテルから出発したタクシー。
その車内。後部座席に並んで腰掛けたふたり。
押し黙ったまま、何も言葉を発そうとしない。
流暢な日本語を話す陽気なドライバーが最初はあれこれと話し掛けてきたが……そんな彼らの張り詰めた雰囲気を感じ取ったのか、今は何も言わずに黙々とハンドルを操作する作業に専念している。昨日は熊沢と南條に振り回されひたすらショッピングという名の荷物持ちに明け暮れていた為、台北をろくに見物することもできなかった夏妃はガラス越しにその街並みを興味深く眺めていたが、早くもその光景に飽きた様子で所在なさげに視線をうろうろと動かしていた。
そして隣の蔵臼は両腕を組んで、背もたれに背中を預けて目を閉じている。眠っているのではなく、何やら考え事をしている様子。そんな蔵臼を横目で眺めてから、夏妃も同じように力を抜いて目を閉じた。
そして………考える。この10日間あまりの出来事を。
いや、この結婚を知らされてからのことを。
―――性格も趣味も何も知らない、ただその家柄だけは知っていた。
何時もは娘に優しい父も母も、この結婚に関しては夏妃の望みなど全く聞く耳を持ってはくれなかった。「右代宮家に嫁げば、もう一生安心だから」それだけを呪文のように唱え続け、娘を海の孤島へと追いやった。
夏妃も、子供ではない。この結婚にどんな意味があるのか。この結婚で月ノ部家にどんなメリットがあるのか。そのことを考えれば、彼女ひとりが我が侭を言える状況でないことは明らかだった。両親を恨む気持ちも、彼女の中には全くなかった。代々才能ある巫女を輩出して政財界とのつながりを強めてきた月ノ部家だったが、先の戦争で没落し、差し出せるものは最早ひとり娘の夏妃だけという有り様だった。飛ぶ鳥を落とす勢いで富を築いている右代宮家からの縁談の申し出は、月ノ部家にとっても夏妃にとっても、最初から選択肢など与えられていない結婚。千載一遇の好機。
それでも、夏妃はこの結婚を彼女自身にとって前向きなものにしようと努力したつもりだった。これまで滅多に着ることのなかった洋服を着るようにし、料理や洗濯など、自分なりに「花嫁修業」を積んできたつもりだった。六軒島に来てからも、金蔵や蔵臼、絵羽の言葉に傷つきながらも……何とかここで蔵臼の妻として認められ、幸せな家庭を築きたい。それは彼女の偽らざる気持ちであったし、その為に彼女は一生懸命頑張った。そのつもりだった。
―――しかし、それも。

『明日、この島から、出て行ってください。
あなたとの結婚は、ここで終わりです。』


あの言葉が、終わらせた。
土台、最初からうまくいくはずのなかった結婚。当然の結末として蔵臼から告げられた、あの言葉。それが、短すぎる夏妃の結婚生活を終わらせた。
昨日、熊沢は言ってくれた。『蔵臼さまが女性と意識して接しているのは夏妃さまだけですよ』と。その言葉が嬉しくなかったといえば、それは嘘になる。あの使用人――冬花の存在を気に病んできた夏妃にとっては、心が軽くなる事実に違いはなかった。もっとも、彼女も熊沢の言葉を鵜呑みにするほどお人好しではなかったが。
でも、それも今となってはただ空しいだけ。蔵臼が、そして何より自分自身が、この結末を仕方のないことだと受け容れてしまっているのだから。熊沢や南條の気遣いは(迷惑だったのも事実だが)確かにありがたかった。それでも、自分たちの結論は変わらない。
現に、蔵臼は自分を「夏妃」とは呼ばない。「月ノ部さん」と自分の旧姓で呼ぶ。
……もう、涙は出ない。あの夜、一生分の涙を流したから。
目を開き、もう一度夏妃は蔵臼の横顔を盗み見た。すぐに視線を戻し、再び目を閉じる。
彼女は思う。
もし、もっと違う形で出会えていれば、或いは……と。
そして。
何故蔵臼に敬語を使われると、こんなにも胸が痛むのか。そのことは、もう考えないようにした。


夏妃が目を閉じた気配を感じて、蔵臼はうっすらと目を開いた。
胸元で組んでいた腕を解き、頬杖をつきながらガラス越しに映る台北の街並みをぼんやりと眺める。
この街に何度も訪れたことのある蔵臼にとってその風景はさほど目新しい物ではなかったが、そんな台北の街にもやはり(東京ほどの速度ではないが)近代化の息吹が確かに感じられるのだった。前回訪れた時にはなかったビルや商店が建っているのを見つけるのは、台湾に限らず蔵臼が六軒島から出張してきた際の楽しみではあったのだが……この時の蔵臼には、そんなささやかな喜びを感じる心の余裕は何処にもなかった。
そして………考える。この10日間あまりの出来事を。
いや、この結婚を知らされてからのことを。
―――性格も趣味も何も知らない、その家柄すらも知らなかった。「それ」は何時ものように、父である右代宮金蔵の絶対命令による義務。結婚という生涯最大の出来事であっても、決して例外ではなかった。自分の意思で将来の伴侶が決められるはずもないことは蔵臼自身ずっと以前から覚悟していたことであり、そのことを不満に思う気持ちは蔵臼にはなかった。特定の恋人を作らず、女に溺れず……そして訪れた、ある意味「予定通り」の結婚。蔵臼にとっては、ただそれだけのこと。後は、右代宮家のこれからを背負って立つ男子を作ること。それが、蔵臼が偉大な父から与えられた最大にして唯一の役割。月ノ部夏妃という女性には気の毒だが、自分も金蔵も、彼女にはそれ以上の役割など最初から望んではいなかった。そう思っていた。
それでも、蔵臼はこの結婚を自分自身にとって……そして夏妃の為に、少しでも前向きなものにしようと努力したつもりだった。これまでは女性を使い捨てのように扱ってきた蔵臼が、――冬花に叱られたこともあるが――夏妃への接し方を改めようと、心を入れ替えた。初めて迎えた夜も、夏妃の体を労わって何もせずに休もうとした。翌日からは出張で六軒島を離れてしまったが、戻ってきたらまた彼女の為に出来ることをしようと思っていた。出来ることなら、夏妃を妻として心から愛し、幸せな家庭を築きたい。そうなれればいい。それは彼の偽らざる気持ちであったし、その為に彼は不器用ながら一生懸命頑張った。そのつもりだった。
―――しかし、それも。

『もういいですっ!!
何も……聞きたく………ありませ………ん………!!』


あの言葉が、終わらせた。
蔵臼自身だけでなく、自分が姉のように慕っている女性をも侮辱する、夏妃の心ない言葉の数々。それが、蔵臼の心を根元からへし折った。此処まで自分をひどく傷つける女に、蔵臼は今まで出会ったことがなかった。
土台、最初からうまくいくはずのなかった結婚。当然の結末として、怒りをこめて夏妃に告げた「出て行け」。それが、短すぎる蔵臼の結婚生活を終わらせた。
昨日、南條は言ってくれた。『しかし、形だけとはいえ夫婦になったのでしょう? もっとお互いを理解するよう努力するべきでは?』 と。確かにその通り。自分たちには、あまりにも時間がなさすぎた。互いのことを少しずつ知っていかなければならなかった。まずは手を上げてしまったことを謝って――――――それから?
「……………………………」
それから、何をすればいいのだろう。
謝る? 姉のように慕っている冬花をあんな言葉で侮辱した女に? 何故自分が? 
『この旅を通じて、互いを良く知ってから考えても遅くはないと思いますぞ』と南條先生は言った。それも確かにその通り。でも、彼女は? 
もう心を決めているんじゃないのか? 
そして自分も、もうこの結婚を諦めているんじゃないのか?
だからもう、彼女を苗字でしか呼ばないんじゃないのか? 
彼女も俺のことを「右代宮さん」としか呼ばないんじゃないのか? 
……もう、涙は出ない。あの夜、自分の不甲斐なさに流せるだけ流したから。
目を開き、もう一度蔵臼は夏妃の横顔を盗み見た。すぐに視線を戻し、再び目を閉じる。
彼は思う。
もし、もっと違う形で出会えていれば、或いは……と。
そして。
何故彼女を殴った右の手のひらが、こんなにも熱を持ったままなのか。そのことは、もう考えないようにした。





「……………………!」
深く深く、自分の世界に入り込んでしまっていたようだ。幸い、それほど長い間ぼうっとしていたわけではなかったが。ほんの数十秒の間だけ、意識が飛んだような奇妙な感覚を夏妃は味わった。
そして夏妃は先刻タクシー内であれこれ考えていたことを一旦頭の中から追い出し、今もなお興味深そうに展示物に目を奪われたままの蔵臼の元へと歩を進めた。先ほどのようにはしゃぎ回りながら歓声を上げるのではなく、今の蔵臼は物思いに耽りながら時折目を閉じており、その近付きがたい雰囲気に一瞬躊躇った夏妃だったが………蔵臼の思索を邪魔しないよう、足音を殺して彼の元に近寄る。もしかしたら蔵臼も自分と同じように先刻のタクシーでのことを考えていたのだろうかと、今となっては全く意味のないことを考えながら。
夏妃の気配に気付いた蔵臼が、吹っ切れたような穏やかな笑顔を向ける。
それは、今まで彼女が見たことのない彼の表情。
夏妃は虚を突かれたように、戸惑いと驚きを隠せなかった。
しかし、彼のそれはすぐにいつもの自信に満ちた笑顔に変わり……そして、ぐるりと周囲を見渡しながら感慨深げにこの博物院への賛辞を口にする。
「……いや、流石は世界四大博物館の一つに数えられるだけのことはあります。これはじっくり見て回ろうと思ったら、どれだけ時間があっても足りません」
蔵臼の言葉に、夏妃もこくりと肯く。
勿論、海外へ出ること自体が初めての経験である夏妃にとっては、見るもの触れるものの全てが新しい、未知のものばかりだった。しかし、この博物館に収められているものは特に夏妃の好奇心を刺激するものばかりで、それにより彼女はより一層、「これまで小さな日本しか知らなかった自分」を省みらずにはいられなかった。………何しろ、蔵臼との結婚が決まってから初めて、大慌てでパスポートを取得したくらいである。もし他の誰かと結婚していたら一生海外に出ることもなく、世界を知ることもなく一生を終えていたのだろうと、夏妃は自嘲気味に微笑んだ。
そして、今自分が感じたままのことを素直に口にする。
数日前にあれだけ酷い喧嘩をした相手に、何故こんなにも真っ直ぐに向かい合えるのかと自問しながら。

「…………ええ、本当に大きな博物館です。アジアの歴史や雄大さを感じます。
日本の中にいるだけだと、本当に井の中の蛙みたいになってしまいますけど………こうやって、世界を知るということも必要なのですね………」
「…………………………」


それは、決して蔵臼を皮肉った物言いではなかった。
この博物院を訪れた夏妃の、正直な気持ち。感想。ただそれだけのこと。これまで日本という小さな世界しか知らなかった彼女の、偽らざる心境でしかなかった。
しかし、蔵臼はその言葉に冷水を浴びせかけられたように押し黙り……夏妃から視線を逸らして隣に展示されていた翡翠の装飾品へと向き直った。
そんな蔵臼の様子に、夏妃は自分が何か失言をしてしまったかと心配そうに彼の表情を窺う。蔵臼は手を振り、気分を害したわけではないことをジェスチャーで伝えてから、再び彼女から視線を外して語り始めた。
こんなにゆったりとしたペースで言葉を発する蔵臼を、夏妃は初めて知った。
周囲は多数の観光客でごった返していたが……彼らの周囲だけ、熱がさっと引いたように冷たい空気に覆われているようだった。


「井の中の蛙……それは、まさに私自身のことです。
学校では勉強もスポーツもできて、まるで王様みたいに振舞って……でもあの島では、私は無力な一人の子供でしかなかった。
あまりにも偉大な父と、あまりにも凡庸な自分。
明らかに自分よりも優秀な妹や弟。にもかかわらず、長男というだけで私はあの父親の後を継ぐことを約束されていた……ははっ、そりゃあ絵羽たちにとっては面白くないでしょう。だからいつも私に反抗的でしたし、私も、彼女たちを感情の捌け口にしてきました。気に入らないことがあれば暴力を振るい、罵詈雑言を浴びせてきました。きっと絵羽たちは、一生私のことを許さないでしょう。そう思われても仕方のないことを、私はやってきましたから。
そして、高校を卒業してアメリカの大学に行って、一皮むけたつもりでいた。あの父親の後継者として、恥ずかしくないだけの経験を積んできたつもりだった。
……でも違いました。日本に帰ってきたら、あの父親との差はずっとずっと広がっていた。4年間、机の上でままごとみたいな勉強を続けて自己満足に浸っている間に……あの人はもっともっと大きな怪物になっていました。もう、あの人を父親だなんて思えなくなっていた。あの人が何を言っても、もう気にならなくなっていた。ただ、あの人の命令を忠実に遂行するだけなんです。私にはあの人が、何か得体の知れない他人としか思えなくなっていたんですよ、月ノ部さん」

それは、ただの自傷行為。
何の生産性もない、空しい言葉の羅列。自分の無能さを再認識するだけの、でもそう認めてしまえばきっと楽になれるという、寂しい諦念。
だから、夏妃は。
『嘘』
その一言で、彼の言葉を否定したかった。あなたは、そんなことを考える人ではありません、と。
けれども、彼女はそれを選択しなかった。それを嘘だと断じる資格が今の自分にあるのか、彼女自身分からなかったから。それでも、蔵臼の言葉が彼の本心ではないことは十分に理解できた、つもりだった。
彼が父親を、本当に他人だと思っているなどと。
そんな筈はないと、夏妃は断言できる。彼は父親の愛情を求め、その能力と才覚に嫉妬し、憧れ……そしてきっと、憎んでいるのだから。
初めて六軒島を訪れたあの日。
六軒島当主である右代宮金蔵の部屋を茫然と出た自分を、抱きとめてくれた蔵臼。
彼が金蔵の部屋に向けた眼差しを、夏妃は決して忘れることはできなかった。それだけ、印象的だった。出会ってから傲慢で不遜な仮面しか見せることのなかった彼が初めて夏妃に垣間見せた、22歳の若者に相応しいリアルな熱情。それを、夏妃は忘れ難く心に刻みつけていた。蔵臼もまた、自分と同じ、ひとりの若者なのだという事実。その事実が、六軒島に到着して早々に折れそうだった夏妃の心を僅かながら支えてくれたことを、彼女はもう否定するつもりはなかった。
それでも……それでも、今この時夏妃は、身じろぎひとつできなかった。蔵臼に、何も言うことができなかった。
その理由はまず一つに、金蔵と蔵臼の関係は確かに一見して歪な、当事者以外には理解しがたい関係であるという事実。
夏妃は自分の両親を思い浮かべた。確かに巫女やなぎなたの訓練をしている最中は厳しかったが、それ以外の時間は優しく、夏妃の望みのほとんどは叶えてくれたように思う。忙しくとも自分の話はよく聞いてもらえたし、学校で良い成績を挙げた時などは喜びを隠すことなく表現してくれた。自分は両親を愛していたし、両親も自分を愛してくれたと夏妃は確信している。だから彼女は、蔵臼が金蔵に対して抱く感情を半分は深く理解し……残りの半分は、まったく理解できなかった。親を憎むという経験のない彼女が何を言ったところで、彼の心には届かないのではないか。その思いに至った時、夏妃は自分の言葉が蔵臼を傷つけてしまうのではないかと恐れたのだ。
―――恐れる? 何を今更。間もなく他人になる相手に何を躊躇うというのか。
そう自分自身を嗤う、もうひとりの夏妃。
そして気付かされる、もうひとつの理由。
「他人だから何でも言える」? 違う。
その逆だ。「他人だからこそ、何も言えなくなる」のだ。

「他人になるから………何も言えなくなるのね」

蔵臼に何も言えないこと。
それが何故こんなにも苦しいのだろう。こんなにも切ない気持ちになるのだろう。夏妃は自問する。そして、その答えを彼女は既に手に持っていた。手に持っていて、その事実から目を逸らしているだけだった。
相手が慣れ親しんだ相手ならば――家族や友人、恋人ならば――相手の心にある程度踏み込むことにも、それほど遠慮は必要ない。勿論「親しい仲にも礼儀あり」という諺のとおり節度と相手側の理解があった上での話だが、それでも、相手の心のうちに飛び込まなければ、今よりも踏み込んだ関係は築けない。往々にしてどちらかが、或いはお互いが傷つく過程。それでも、人は大切と思う相手にとって自分も大切な人間になりたいと、傷つくリスクを承知で関係を築いていくのだ。それは正に、六軒島に来た自分が蔵臼と信頼関係を築こうと努力してきた日々と同じ。
人は笑うだろう。「たった10日足らずで何が努力だ」と。それでも、夏妃にとっては……掛け替えのない、忘れることなど決して出来ない濃密な時間だった。
「他人になること」それは、これまでの夏妃の努力とは正反対の行為。相手と適切な距離を取り、決して相手を傷つけることのない当たり障りのない会話で場をしのぎ、すれ違った次の瞬間にはもうその相手のことなどごく自然に記憶から締め出す行為。そして「他人」とは他ならない、蔵臼と……自分の、今の関係。
だから、夏妃は動けなかった。
「月ノ部さん」そう蔵臼が自分を呼び始めた時点から。
自分とあの人は、もう他人になったから。
他人の心に土足で踏み込むような行為も、発言も、もう許されないから。
そして、夏妃は悲しい気持ちで満たされた。
今の蔵臼の言葉は、「他人」に向けて発せられたに過ぎなかったから。
夫婦ではない、ただの旅行同行者なら。「右代宮夏妃」ではない、「月ノ部夏妃」になら……自分の心情を吐露しても、決して自分の心に踏み込んでは来ないから。何故? 他人だから。

そんな蔵臼の気持ちを、覗き見してしまったようで。
夏妃は、理由のわからない悲しさで満たされた。
そして後悔する。
蔵臼の言葉につられて、彼を「右代宮さん」と呼んでしまったことを。
―――蔵臼と他人になることが、こんなに悲しいのなら。
もっと彼と向き合って話し合えばよかった。冬花のこと、自分のこと、そして蔵臼のことを。
でも、もう遅い。手遅れだ。
私も蔵臼さんも、もう答えを出してしまった。それを変えることなど、もはや不可能。


涙を流さずに泣いていた夏妃に、追い打ちをかけるように。
蔵臼が彼女に向き直り、深々と頭を下げる。
先刻の呟きが聞こえたのか、聞こえなかったのか。もう夏妃にとってはどうでもよかった。
「やめて」と叫びたかった。
それでも、目を逸らすことはしなかった。出来なかった。
自分が招いた結果だと。自分の所為でこうなったのだと、自らを罰するように。
―――蔵臼が、頭を下げたまま告げる。淀みない、謝罪の言葉。


「先日は、女性の頬を叩くという無礼……大変申し訳ありませんでした、月ノ部さん」


他人が他人に告げた、謝罪の言葉。
夏妃は辛うじて、微かに肯くことだけは出来た。
そして。

「いえ……私も、あの時は興奮しすぎていましたから………。
それより、くら………右代宮さん、お腹すきませんか? お昼、食べに行きませんか?」
「………はい、そうですね。そろそろ出ましょう」

あと数秒蔵臼の顔を見つめていたら、押さえていた感情が溢れてしまいそうだったから。
夏妃はくるりと踵を返し、蔵臼に背を向けて軽快に歩き始めた。
夏妃は、ただただ悲しかった。それ以外の感情など、その小さな胸の何処にも隠れ場所はなかった。
そして気付く。手遅れになって、もうどうしようもなくなって、初めて、自分の気持ちに。


彼に恋をしていたのだ、と。







右代宮蔵臼は、戸惑っていた。
隣ではしゃがみこんだ夏妃が人懐っこいリスに餌を与えながら小さな歓声をあげていたが、そんな彼女に一旦背を向け……おもむろに芝生に腰を下ろす。そんな彼の動作に合わせるように、夏妃もハンドバッグからハンカチを取り出して芝生に敷き、その上に座った。
「………………………」
「………………………」
ゆったりと流れる、台北の午後。
空にぽっかりと浮かんだ雲の流れも、行き交う人々の歩く速さも、そして誰にも平等な筈の時間すら……こうして静かに過ごしていると、のんびりと穏やかに過ぎて行くように蔵臼には感じられた。
此処は、台北公園(たいぺいこうえん)。
かつて日本が台湾を統治していた時代……1899年に作られた、台北を代表する大きな公園。この街の中心部に位置し、市民の憩いの場として親しまれている。故宮博物院を出て近くの食堂で昼食を済ませた蔵臼たちは、午後をのんびりと過ごそうとこの公園にやって来たのだった。
周りを見渡すと、蔵臼たちと同じように芝生に腰掛けてこの静かな時間を堪能している旅行者や地元の老人たち。
歓声を上げながら走り回る子供たち。
土産物屋で楽しそうにあれこれと手を伸ばしている恋人たち……様々な人間が、思い思いにこの公園での午後を過ごしていた。そして、此処で蔵臼を知る者は誰もいない。無数に訪れる日本人観光客のひとり。ただそれだけ。それはそれで勿論、蔵臼にとって気楽でリラックスできて嬉しいことなのだが……喧騒に包まれ、誰もが自分を知り、すれ違えば誰もが振り返る東京を何故か恋しく思ってしまう自分に同時に苦笑してもいた。自己顕示欲の強いあの男の血を引いていることを嫌が応にも思い出し、今度は口を真一文字に結び直す。こんな時に思い出すのではなかったと、ほんの僅かな後悔を滲ませながら隣の夏妃にもう一度視線を送る。
「……………………?」
「………………いえ、何でも」
自然に夏妃と視線が合い、慌てて逸らせてしまう。夏妃はそれに気を留めることなく、穏やかな秋風につられるように口元を押さえながら小さな欠伸を漏らした。
そして……彼女が見た台湾という地域のもうひとつの一面を、ぽつりと指摘する。

「やはり、軍服を着た人が………多いのですね」
「ええ……まだあの事件から、8年しか経っていませんから………」

そう小声で答え、蔵臼は忌々しげにもう一度周囲を見渡した。
穏やかな午後の街並み。先ほどは見ない振りをしていたが、その光景を破壊してしまう、平和な時間に相応しくない者たちが………ある者は目立たぬように、そしてまたある者は敢えて人々を威圧するように……立っている。銃を構えて。先に訪れた故宮博物院ではあまり意識することはなかったが、この公園に近付くにつれて銃を構える兵士の数を見かけることが増えていった。
戒厳令。
1947年に発生した、二二八事件。
中華民国の国民党政府による、地元民の虐殺。その結果、出された戒厳令は事件から8年経った今でもなお、解除されることなくこの地で出され続けている。
太平洋戦争から立ち直り発展を期した矢先の悲劇。日本もこの出来事にまったくの無関係ではないのだと思うと、蔵臼の胸はじわりと痛んだ。
「戦争の悲劇…………まだ、終わらないのですね」
「ええ………」
厳密にいえば二二八事件は戦争ではなく内乱と呼ぶべきなのだろうが……人々が傷つき命を落とすという事実には何の変わりもないのだと、蔵臼は夏妃の沈んだ声に相槌を打った。
「月ノ部さんのお父様は……戦争に?」
「はい、とは言っても………前線からは程遠い情報部の人間でしたから。戦争が終わってしばらくは、何かの拍子に『お国の役に立てなかった。申し訳ない』って泣いていました。家族にとっては、生きて戻ってきてくれることが一番嬉しいんですけどね……ふふっ」
「そう、ですね………。私も、戦争が終わって父が帰って来た時は、嬉しかったです。どんなに変わっていたとしても、父は父ですから。
まあ、戦後に父がGHQとコネクションを結んでいろいろやり始めた時は、『非国民』だといろいろ陰口も叩かれたものです。子供ですから、その辺りは容赦がなかったですね……」
「そうですか……大変だったのですね」
「いえ、そんなことはありません。他人のやっかみに気を払う余裕もなかったですし、あの時は……………」

冬花がいてくれましたから。
その言葉を発しそうになって、蔵臼はその先を濁した。夏妃も気にした様子はなく、蔵臼の言葉にこくりと頷いた。
そして、蔵臼は瞑目し再び思考の海へと漕ぎ出す。それを感じ取った夏妃も、何も言わずにそっと立ち上がると近くの建物へと足を運んで行った。



戦争。
その言葉に、蔵臼は何も実感を持つことは出来なかった。
小田原の実家にいた蔵臼は、危険だからと東北に疎開し――それも、普通の子供とは明らかに違う待遇を受けていたことは子供ながらに自覚していた――戦争が終わってから小田原に戻り………そして、父である右代宮金蔵が買い取ったという六軒島に移った。ただそれだけの出来事。親を失う悲しみに打ちひしがれることもなく、空腹に耐え鬼畜米英を呪うこともなく、ただ淡々と「日常」を過ごし、気がつけば平和になっていた。
だから蔵臼は、日本の敗戦もその後の復興も、他人事のように眺めることしかできなかった。どんどんと大きなビルが建っていくことに興奮はしても、それを戦争と結び付けるという発想はまったく持てなかった。

―――彼にとって、戦争は「父を変えた出来事」でしかなかった。

今でも、鮮明に思い出すことができる。
出征する前は何事にも無関心で、それでも冷たい人間ではなかった父。金勘定などしたこともなく、気の強い母の陰にいつも隠れていた父。蔵臼にとって右代宮金蔵は、尊敬はできずとも、寡黙で実直な「父親」であった。
そんな父が……………戦争の終わりを境に、変わった。別人のように。
まるで錬金術のように金を生み出し、たった数年のうちに右代宮家を日本有数の名家の座へ返り咲かせた。それだけの資産をどうやって手にしたのか、誰も知ることはできなかった。或いは、無二の親友である南條が知っているかもしれないと過去に質問したことがあったが、「自分も何も知らない」と一蹴された。
そして、父親が変わったのは金を生み出したという事実だけではない。人間としても、まるで魔物に取り憑かれたように恐ろしい存在へと変貌していた。無口で、必要なことでさえもぼそぼそと話すしかなかった父が、常に周囲を威圧し、あの母にも平気で手を上げ……蔵臼にも、容赦のない罵声と、時には暴力さえ降りかかるようになった。
あれから、ちょうど10年。
母は楼座を産んでほどなく正気を失い、六軒島から去っていった。そして自分は、正に金蔵の操り人形としてこの世界に生きている。
自分の意思など、何も認められず。
そして蔵臼自身も、何も貫き通そうともせず。

―――何故自分は、夏妃にあんなことを喋ってしまったのだろうか。
そして浮かび上がる、己への問いかけ。発してしまった瞬間からずっと戸惑っていた、自分でも理解できなかった行動。
故宮博物院で夏妃に話したこと。それは勿論事実ではなかった。蔵臼が金蔵を意識しないことなど、絶対にあり得ない。蔵臼自身がそのことを一番理解している。何時も、どんな時でも……金蔵に一歩でも追いつきたい。少しでも認められたい。その感情はこの10年で小さくなるどころか、ますます大きな炎となって蔵臼の胸の裡で燃え盛っていた。
……だが、何故それを夏妃に話した?
嘘まで吐いて、しかも間もなく「他人」となる夏妃に?
そしてその疑問は、あっさりと蔵臼自身の口から答えが導き出される。

「他人だから………安心してしまったのか」

夏妃に話してしまったこと。
それが何故こんなにも後悔を伴うのだろう。こんなにも申し訳ない気持ちになるのだろう。蔵臼は自問する。そして、その答えを彼は既に手に持っていた。手に持っていて、その事実を認めようとしないだけだった。
蔵臼が今まで自分の心情を吐露する相手は、冬花だった。それは彼女がずっと自分を見てくれていた存在で、そんな人間はこの先現れないだろうと、蔵臼は諦念に近い思いを抱いてきた。それはある種の「甘え」であり、自分が冬花という存在に甘えているだけだということも頭の中では理解していた。人間関係をゼロから始めるのは、得手不得手はあるにせよ、誰にとっても容易なことではない。それが夫婦となれば尚更のこと。そのことから無意識のうちに逃げてはいなかったか? 
「金蔵の手による仕方のない結婚」という意識は、最後の最後まで捨てきれなかったのではないか? 
自分が夏妃に歩み寄る努力を放棄したことの言い訳にする為に?
冬花を侮辱したと、夏妃に怒りをぶつけたこともそう。確かに、姉同然に思っている冬花への夏妃の心ない言葉は蔵臼にとって許せるものではなかった。だが、蔵臼は夏妃にきちんと説明をしたのか? 自分と冬花の関係について。自分が冬花をどう思っているのか、夏妃のことをどう思っているのか。
―――出会ってからのことを、思い返す。
最初の印象は「何処にでもいる箱入り娘」それ以上のものではなかった。
冬花に叱られて、少しは優しくしたつもりだった。
そして、何とか初夜に漕ぎつけたと思ったら……突然の平手打ち。訳のわからない言葉を叫び、扱いに困った自分は隣の部屋に逃げた。こんな経験、生まれて初めてだった。
それから一週間。彼女のことが何故か脳裏に残り続けた。そして戻ってきたと思ったら、またヒステリックな彼女と大喧嘩。挙句の果てには台北という土地で、やたらと他人行儀で不自然な会話を繰り広げている。
何なんだ、この趣味の悪い冗談のような結婚生活は? いや、こんなものは結婚とは呼ばない。そもそも、始まりからして………………

「違うだろうが………馬鹿が! 始まりなんて………関係ないだろう!?」

まだ誰かに責任転嫁しようとする弱い心に、自分で喝を入れる。
もう、蔵臼は理解していた。問題なのは「時間のなさ」ではなかったことに。
「急な結婚だった」ということを言い訳にして、そして………冬花と過ごす心地良い時間を失うことを恐れて………自分は、何も言葉にしていなかった。そのことに、蔵臼は気付いていた。気付いていて、気付かない振りをしてきた。
あの言葉を夏妃に告げた瞬間。そして、それを聞いた夏妃の、表情を見た瞬間。
蔵臼は、自分がいかに自分勝手だったかを理解した。そして、後悔の波に襲われた。
夫婦である間に、正直に話すべきだったこと。それを、「他人」になった途端、嬉々として話し出す。しかも、この期に及んでまだ自分を格好良く見せようと、嘘まで交えて。「他人となった」夏妃が自分に何も言えないことをいいことに、自分だけ重荷を下ろしたような気分になって。
彼女に謝りたい。
「愛している」と臆面もなく言えるほど、自分は夏妃のことを知らない。
だから、知りたい。これから、時間をかけて。自分たちのペースで。
しかし、それに気付くのが………遅すぎた。
もう、自分にはどうすることもできなかった。
「右代宮さん」そう夏妃が自分を呼び始めた時点から。
自分と彼女は、もう他人になったから。
これ以上彼女の心に土足で踏み込むような行為も、発言も、もう許されないから。

「あ………………」

蔵臼の頬からぽろりとこぼれ落ちた、一滴のしずく。
それが、彼の今の感情のすべてを物語っていた。
そして後悔する。
彼女を「月ノ部さん」と呼んでしまったことを。
―――夏妃と他人になることを、こんなに後悔するのなら。
もっと彼女と向き合って話し合えばよかった。冬花のこと、自分のこと、そして夏妃のことを。
彼女が自分に向けてくれた数少ない笑顔が、頭から消えてくれない。それは此処で見せる作り物の笑顔などではない、あの島で、六軒島で……蔵臼だけに見せてくれた、本物の笑顔。
でも、もう遅い。手遅れだ。
俺も夏妃も、もう答えを出してしまった。それを変えることなど、もはや不可能。
そして気付く。手遅れになって、もうどうしようもなくなって、初めて、自分の気持ちに。


彼女に惹かれ始めていたのだ、と。


………近付く足音。
何時の間にか、それが彼女の足音であることを蔵臼は聞き分けられるようになっていた。
振り返ると其処には予想通り……夏妃の姿。あちこち歩き回って疲れたのだろうか、その表情には疲労の色が見て取れる。
そして。
「右代宮さん……そろそろ、夜市の始まる時間じゃありませんか? 行きましょう?」
屈託のない笑顔で笑う夏妃。
だが、蔵臼は知っている。否、知った。
彼女の心が深く傷つき、そして彼女を傷つけたのが他ならない自分であることを。
今日台北の街を回っている間、夏妃がずっと頬笑みを絶やさなかった理由を。せめて最後はいい思い出として、この結婚生活を締めくくろうとしていることを。
―――やっと分かった。今の今になって、愚かな自分は。

「それで………………いいのか? 蔵臼」
「え………? くら……右代宮さん、今何て………?」


自問する。
答えはすぐに出た。
考えるまでもなかった。


がしっ!!


「きゃ………急に、どうしたんですか?」
「…………………………」
力いっぱい、蔵臼は夏妃の腕を掴んだ。
そして、夏妃の目を真っ直ぐに見据える。
………間違いない。
ここで終わりにしたら、きっと後悔する。俺も、彼女も。
「何故彼女の心が分かるのか」だと? 
傲慢だと、笑いたければ笑うがいい。
妻の考えていることも分からずに、夫が務まるものか―――!!


「月ノ部さん………夜市に行ったら、話があります。
私のこと。あなたとの、これからのこと。



冬花の、こと」
「…………………………………ッ!!」


夏妃の体が、稲妻に貫かれたようにびくんと大きく震えた。
そして。

「は、い……………………………………………」

観念したように、小さく肯いた。
そして蔵臼は、右手に残ったままの熱がようやく、少しずつ冷め始めていくのを感じていた。






『どけどけっ! 通行の邪魔だってんだよ!!』
『五月蠅いわね! あんたが迂回すればいいじゃないか!』
『え~、よく切れる包丁がありますぜ! そこのお兄さん、お土産にいかがですかい!?』
『台湾名物のビンロウ、安いよ安いよ~!!』


飛び交う人々の声。主に聞こえてくるのは北京語であるが、その中に時折日本語も聞こえてくる。
もうすっかり日も落ちたというのに、まるでこれから一日が始まるような、人々の盛り上がり、熱気。彼らのあまりの活気と呼び声のボリュームの大きさに、夏妃は思わず両耳を押さえた。先を歩く蔵臼からはぐれないように、人波をかきわけながら歩みを早める。少しでも気を抜くと迷子になってしまいそうな、店と店の間の僅かな隙間を歩いてゆくふたり。
台湾に初めて訪れた夏妃にとっては勿論、蔵臼も実はこの場所に来るのは初めての経験だったが、昨日、荷物持ちの合間にふとしたきっかけで南條から「近くに美味しい店がある」と聞かされていた蔵臼は、迷うことなくその目的の店を目指すことができた。それでも、何度か道に迷い、店にぶつかり……到着した時には、ふたりとも肩で息をするほどだった。
此処は、台北の夜の盛り場、夜市の中でも特に有名な場所………士林夜市(しりんよいち)。
路上に所狭しと並んだ、様々な屋台。飲食店、生活雑貨、貴金属………ありとあらゆるものが、威勢のいい呼び声とともに販売されていた。物珍しそうに、それらをきょろきょろと眺めながら歩いてゆく夏妃。そんな彼女に、蔵臼は興味深く尋ねる。
「月ノ部さんは……屋台や出店は……初めてですか?」
その蔵臼の問いに夏妃は驚いてあれこれ取り繕おうとしたが、すぐに無駄な努力を諦め、恥ずかしそうに答えた。
「は、はい……あまりこういったものには、縁がなくて………門限があったものですから、お祭りなどにも、行く機会はありませんでしたので………」
「…………ふ、ふふっ」
そう答えた夏妃が、あまりにバツの悪い表情を浮かべていたから。
蔵臼は、堪え切れずに笑みをこぼしてしまった。田舎者だと馬鹿にされたと、そっぽを向いて拗ねてしまう夏妃。
それを宥めながら、蔵臼は思い出す。
かつて父と過ごした、小田原での日々を。
戦争によって変わってしまう前の父と2人で行った、夏祭りのことを。
あの時の父は、何を思っていたのだろう。
可愛がってもらった記憶はほとんどない。たった一度、戦地に赴く前にたった一度だけ連れて行ってもらった、あの夏祭り。無口で何を考えているのかさっぱり分からない父だったが、あの時だけは少し上機嫌で、立ち並ぶ屋台に歓声を上げた蔵臼の我が侭を何でも聞いて、お菓子を買い、玩具を買ってくれた。
そして祭りの最後の花火大会を、肩車してもらって眺めたこと。
戦争に行く前の父との思い出といえば、本当にそれくらいしかなかった。それでも幼かった蔵臼にとっては大切な思い出であり、その思いは父がすっかり変わってしまった今でも色褪せることはない。
―――あの人は、今も覚えているのだろうか。あの夏の一日を。
それを確かめるつもりは、今の蔵臼にはなかった。
それでも、何時か。何時の日か。
蔵臼は訊いてみたいと思った。
右代宮金蔵に。
今でも愛し、尊敬する……彼のたったひとりの父親に。


「―――右代宮さん? 座らないのですか?」
「あ、ああ………すみません。つい、昔のことを思い出してしまいまして………」
夏妃の声に、慌てて椅子に腰掛ける。
夜市の中でも比較的人通りの少ない場所にあったその屋台は、蔵臼たち以外に数人の客が入っていたものの……まだまだ席には余裕があり、ゆっくりと話をするには格好の場所といえた。
北京語で適当に注文を済ませた蔵臼。
そして、さて何から話そうかと身構えたが、それよりも先に夏妃が口を開く。

「素敵な……思い出だったのですね。先ほどのく…右代宮さん、すごくいい笑顔でした」
「あ………ありがとうございます」

屈託のない夏妃の笑みに、照れながら頭をかく。
そして、いよいよ夏妃に自分の気持ちを告げようとして



「…………………………………………ぅ」
「……………? 右代宮さん?」


それきり、蔵臼は何も言えないまま固まってしまった。
額から、首筋から……だらだらと脂汗が流れ落ちる。それでも、蔵臼の舌は、何時ものような滑らかな回転を忘れてしまったかのように、動かない。何とか気の利いた言葉を発そうと何度その口を動かしても、彼の口からは何時もの流れるような台詞回しは聞こえてこなかった。
ぎくしゃくと、口だけが奇妙に動き続けている。傍から見たら明らかに挙動不審な様子の蔵臼に、夏妃も首を傾げずにはいられない。
ばっ!! ごくごくごく!!
とにかくからからに乾いてしまった喉を潤そうと、目の前のグラスに注がれた水を一気に飲み干す蔵臼。
しかし。

「右代宮さん!? それお水じゃなくてウォッカですよ!?」
「おぶうううううううううううううううううううううううっ!! 
ぜーはー、ぜーはー………何故にウォッカが此処に!? おい店主、私はそんな物を頼んだ覚えはないぞ!?」
「サービスでさ、旦那!!(ぐっ)」

思わず日本語で店主に怒鳴る蔵臼。それに対し、流暢な日本語で返事をする店主……極上の笑顔で親指を立てている。
「日本語を喋れるなら最初から言ってくれっ!!」
グラス一杯分のウォッカをほぼ一気飲みしてしまった蔵臼。早くも彼の視界はぐらぐらと揺れ始め、沈没という名のカウントダウンも既に始まりかねない雰囲気である。自分の思いを告げる前にそんな無様な目に遭ってたまるものかと、ぶんぶんと頭を振って何とか酔いを覚まそうとする。
そして、再び夏妃に向き直った蔵臼。
「あ、あの………月ノ部、さん…………ッ!!」
「は、はい……………!!」
夏妃も、そんな蔵臼の真剣な表情に息を飲む。
そして……もしかしたらと、僅かな期待に胸を膨らませていた。
彼は………蔵臼はもしかしたら、自分ともう一度やり直そうと言ってくれるのではないか、と。
それは、自分から望む資格などないこと。右代宮家に嫁ぎ、右代宮家の人間として生きることを自ら放棄した自分に、蔵臼ともう一度などと都合のいいことを考えることはできない。だから、今日一日彼女は、自分の気持ちに気付いても、それでも……もうこの結婚を、蔵臼を、諦めようと決めたのだ。
でも、もし。
もし、蔵臼が自分を選んでくれるのなら。もう一度、一緒にいてもいいと言ってくれるのなら……夏妃は、地に額をこすりつけてでもそれを願うだろう。
生まれて初めて育った恋の根を、枯らしたくはなかった。偽らざる、彼女の願い。
だから、夏妃は待った。蔵臼の言葉を。
例えそれが、彼女の望む言葉ではなかったとしても。
蔵臼から告げられた言葉なら、受け入れよう。
―――しかし、当の蔵臼からは一向に何の言葉も発せられない。やはり先刻と同じように、大量の汗をかきながら何やらぶつぶつと呟いている。
そして。
意を決したように大きく息を吸い込んだ蔵臼の口から、やっと言葉が発せられた。
………ちなみに。
この右代宮蔵臼という男、生まれてこのかた、女性に告白したことは一度もない。



「………まずい。何も思い浮かばないぞ。よくよく考えれば、女性に告白するなんて初めてじゃないのか俺は!? ていうかいつも告白されてきたから、一体何て言えばいいのか見当もつかないぞ!? 
いや、落ち着け、KOOLに、KOOLになるんだ蔵臼! ここはチェス盤をひっくり返して考えるんだ!! 自分から告白できないなら、夏妃に告白させればいいんじゃないのか!? いやだから一体どうやって!? まずい、夏妃が怪訝な表情で見てる、見てるぞ!! 女性に告白したことがないなんて、そんな格好悪いところを知られたら幻滅されてしまう!! 
もう一度、君とやり直したいのに!! 
それだけは絶対に阻止しなければ!! あ! そうだ! この前映画で見た、あの台詞を言ってしまおう! それで夏妃のハートをがっちり鷲づかみにするのだ! GJ俺! 自分で自分を誉めてやろう! あーっはっはっはっはっは!! 
………はあー、はあー、はあー……恥ずかしすぎて死にそうだが……ここで決めないと一生後悔する………せーの、」


(君の瞳に………乾杯(キリッ)


「蔵臼さん、思ってること全部口に出てますよ!? そして多分、一番肝心な部分がモノローグになってますッ!!」
「うおあああああああああああああああああああああああ!! やってしまったああああああああああああああああああああ!!」
七転八倒して地面を転がる蔵臼。その拍子に、屋台の上に置かれていたビンロウの汁入れが倒れ……飲み込んでしまえば胃を痛めてしまうという汁が、蔵臼の顔面に大量に降り注ぐ。

ばしゃー!!

「ぎゃああああああああああああああああああああああああああ!! 
目がー!! 目がああああああああああああああああ!!」


「さっきから何やってるんですか蔵臼さん!?」

両目を押さえて絶叫しながら、台北の屋台でもんどりうって倒れる日本人……そのシュールな構図に、何だ何だと集まってくる野次馬たち。たちまち蔵臼と夏妃の周囲は、二重三重の人垣で覆われてしまった。
そして、その中に………聞きなれた声の持ち主が、ふたり。


「あらあら、蔵臼さまときたら、何と意気地のないことでしょう。ほっほっほ……!」
「確かに、これはいけませんな。心配して此処の滞在を延長したのは正解でした。蔵臼さん、情けないですぞ?」
「「熊沢さんに………南條先生!?」」


蔵臼と夏妃の声が、同時に響く。目の前には、ふてぶてしい笑みを浮かべた男女二人組。蔵臼たちを騙し、この台北へと連れてきた張本人。
そして……今は、ふたりのキューピッド。
蔵臼と夏妃は、同時に悟る。すべて、仕組まれていたことなのだと。
一足先に日本へ帰るというあの手紙も、自分たちを油断させるための策なのだった。そして今日一日の自分たちの行動も、すべて彼らには筒抜けだったのだと。悩み、苦しんだ自分たちのことを……南條と熊沢は、ずっと見ていたのだと。
両目を水で洗い、ようやく立ち上がった蔵臼。憤懣やるかたないといった視線を2人にぶつける。いや、蔵臼だけではない。その隣には夏妃も………南條と熊沢の企みをたしなめるような目で彼らを見渡した。やれやれと両手を上げて、形ばかりの「すみませんでした」を告げるふたり。しかし、その表情は一転して晴れやかなものへと変わっていた。
熊沢が一歩近づき、夏妃の肩を叩く。

「良かったですねぇ、夏妃さま! あんな不格好な形でしたけど、蔵臼さまのお気持ちを知ることができて。ええ、私も、しかとこの耳で聞きましたとも。
夏妃さま、あなたともう一度はじめからやり直したいと! 
さあ、胸を張って、六軒島に帰ろうじゃありませんか。 ね、夏妃奥さま! ほっほっほ……」
「熊沢さん…………ありがとうございます」
目にうっすらと涙を浮かべながら、何度も何度も夏妃の肩を叩く熊沢。それにつられて、夏妃もまた……その美しい瞳から、堪え切れず涙が溢れた。蔵臼に殴られた夜、一生分の涙を流したと思っていたが……まだこんなにも、幸せな涙が残っていたとは。
「君ともう一度やり直したい」
その蔵臼の言葉は、夏妃の耳にも確かに届いていた。そしてその言葉は、他のどんな言葉よりも今の自分たちに相応しいように思える。「愛している」よりも、「好きだ」よりも……夏妃の胸に、重く優しく響くのだった。
ゴールなどではない。蔵臼の言葉通り「もう一度はじめからやり直す」ただ、それだけのこと。スタートラインに戻っただけのことなのだ。あの六軒島での出会いから、紆余曲折を経て……自分と蔵臼は、やっとスタートラインに立てた。
夫婦として一生を全うするという、長い長い二人三脚のスタートラインに。
だから、もう涙は流さない。
何時か、蔵臼から本当の意味でプロポーズされる、その日まで取っておく。
夏妃はそんな決意を胸に抱き……熊沢に深々と頭を下げた。

そして、次に南條が蔵臼に歩み寄り………ぱしんと頭をはたいた。
「痛い!? 何ですか南條先生、この仕打ちは!? てっきり今の熊沢さんみたいに感動的な言葉をくださると期待していたのに!?」
「はぁ……『何ですかこの仕打ちは』ではないですぞ。それは私の台詞です。一体なんですか、あの無様な告白は。
男子たるもの、ぴしっと決める時に決めなくてどうするのですかな? ああ、情けない情けない。私が若いころなどは…………」
「ああ、南條先生! 飲みましょう! 今夜はとことん飲みましょう!!  この人のお説教は本当に朝までだからな……飲ませて酔い潰れさせるに限る」

「ん? 何か言いましたかな?」
「いえ! 何も言っていません!!
さあ月ノ部さ…………夏妃、行こうか? 今夜は長い夜になりそうだけれど、付き合ってくれるかな?」
「………はい! 何処までもご一緒します…………蔵臼さん!!」


ぱちぱちぱち………!!
『ひゅーひゅー!! カッコいいぜ兄ちゃん!』
『もう彼女を泣かすんじゃないぞ~!!』
『またこの街に遊びに来てね~!!』

夏妃には理解できない、異国の言葉。しかしそれを発する者たちの笑顔から、自分たちを祝福する言葉であると思い、彼女は深々と頭を下げた。そして、既に次の店を目指し歩き始めた熊沢と南條の後を追おうと、蔵臼の左側に並んで歩き始めた。
隣を、蔵臼が歩いている。
ただそれだけで、夏妃の胸は熱い鼓動と幸福感で満たされるのだった。
………蔵臼が、静かに口を開く。夏妃の顔を見ずに、前を向いたまま。


「冬花は……私の命の恩人なんだ。だから、私にとっては大切な人。それは、君とこうしてやり直すと決めた今も変わらない。それは………分かってほしい」
「はい。私は、もうあなたを疑ったりしません。蔵臼さんにとって大切な人は、きっと、私にとっても大切な人なのですから。
でも、何時か、何時の日か……その事情を話せるときが来たら……話してほしいです」
「ああ………約束する。
そして、もう一度謝らせてほしい。
あの日、君の心と体を傷つけたこと。
本当に、済まなかった…………………………夏妃」
「その言葉だけで。その言葉だけで、私は嬉しいです……………………蔵臼さん」


もう、夏妃は冬花の名前に怯えたりはしない。
蔵臼の気持ちを知ることができたから。自分の気持ちを確信することができたから。
蔵臼と冬花。彼らの間には、夏妃さえも踏み込むことが許されない絆が存在するのだろう。その絆に心を乱し、嫉妬し……怯えていた夏妃。いや、蔵臼の気持ちを知った今でも、その関係が全く気にならないと言えばそれは嘘なのだろう。現に今でも、蔵臼の口から冬花の名前が出た瞬間、夏妃の胸はきりきりと痛んだ。それは、嘘偽りのない夏妃の本心。
それでも、夏妃は決めたのだ。
隣を歩く、この人を信じようと。
何時の日か、全てを話してくれると言った蔵臼の言葉を。
もう一度「月ノ部夏妃」ではなく、「右代宮夏妃」に向けて頭を下げた蔵臼の、その真っ直ぐな眼差しを。
すべてを、信じようと。

………前方で、あの賑やかな2人の声が聞こえる。

「ほらほら、おふたりとも遅いですよ~! 時間がもったいないですから、早く着いてきてください! ほっほっほ……!」
「その通りですぞ~! 蔵臼さん、夏妃さん……早く早く!」

あの2人なら、50年後もしぶとく生きていそうだ。
そう悪態をついた蔵臼に、くすりと笑いながら相槌を打つ夏妃。これ以上どやされないうちにと、蔵臼と夏妃は速度を上げてこの台北の街を歩いてゆく。
時刻は、午後9時を回ったところ。
―――台北の熱い夜は、まだ始まったばかりである。








<つづく>



2010.11.23 Tue l うみねこ l コメント (0) トラックバック (0) l top

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