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皆さまお待たせしました。
長らく中断していた六軒島の花嫁ですが本日より連載再開です。
ショウガさんも戻って来られてこれから再び書いて行きますので今後もよろしくお願いします。
今回はショウガさんが書かれました。それでは始まります。













「ふう……やっと戻ってきたか」
少しだけ重い足取りでタラップを踏みしめ、船着き場に降り立つ。
そして、無意識のうちに大きく息を吸い込み……六軒島の新鮮な空気を肺いっぱいに染み込ませてから、蔵臼は思い切り背筋を伸ばした。
六軒島の優しい日差しと、ひんやりとした空気。そして賑やかなうみねこの鳴き声に、彼は思わずその口元を緩めずにはいられなかった。
目の覚めるような、何処までも続く水平線。悠久の時を感じさせてくれるブルー。
毎日の激務で疲れ切った目をいつも癒してくれる、この島に満ち溢れる自然。
これらを蔵臼が「美しい」と素直に感じられるようになったのは、大学を卒業してこの島に戻ってからだった。ニューヨークもワシントンも、そして昨日まで一週間の間滞在した東京も、時を早送りしているかの如く激烈な変化を日々続けている。昨日の常識が今日の非常識となり、今日の最先端が明日の時代遅れとなる。そんな中で、蔵臼は時代の速さに取り残されまいと懸命に努力を続けていた。金蔵のような才覚に恵まれない自分にとっては、常に努力を続ける以外に「この世界」で生き残ることは出来ないと――きっとそれを認めることは彼にとって容易なことではなかったのは想像に難くない――何時も自らを戒めてきた。何時も気を張り詰めさせ、どんなに小さな「変化」も見逃すまいと身構えてきた。
だから、なのだろう。
蔵臼がこの六軒島に、大きな安らぎを感じるのは。
この島は何もかも同じ。何も変わらない。蔵臼の疲れた心を、優しく解きほぐしてくれる。この島にいる時は、蔵臼は何時もよりも、ほんの少しだけ全身を覆った鎧を脱ぐことができた。
勿論この島にいても、やるべきことは山ほどある。金蔵へのレポートの提出、毎日の株価のチェック、法律の勉強……そして彼のスケジュール帳は、半年先までびっしりと予定が埋まっている。2週間後には、また島を離れなければならない。それでも蔵臼は、この島に戻ってくる度に、自分の心身が一度リセットされるような不思議な安心感を味わうのだった。まだ若いのに何とも年寄りじみたことだと自嘲しても、それでも彼の緩んだ頬は、当分の間元に戻ることはなさそうだ。
そして……昨日の南條との再会もまた、今の蔵臼の心を軽くしてくれた大きな原因のひとつには違いなかった。
――大学を卒業して日本に戻ってきてからも、母の見舞いに行くことは意識して避けてきた。
変わり果てた母の姿を再確認したくないという気持ち。
母をそこまで追い詰めたのが、この世で最も尊敬する父であるという事実を認めたくない気持ち。
そして、自分がその父の血を引いていることを畏れる気持ち。
さまざまな感情が、蔵臼を「母親」の処へ向かうことを妨げてきた。そして、実際に母の姿を再び目の当たりにして……ショックではなかったと言えば、それは嘘になる。変わり果てた母の姿は蔵臼の心をしたたかに打ちつけ、かき乱した。それは厳然たる事実。
しかし、南條の心優しき言葉が、蔵臼の揺れ動く心の水面を優しく凪いでくれた。
『お母さんはきっと、あなたを誇りに思っていますよ!』
あの言葉に、昨日の自分がどれだけ救われたか。勇気を出して母の見舞いに行って良かったと、蔵臼は感慨深く振り返った。


そして、南條に言われた通り……もう一度、「彼女」に向き合ってみようとも。


「……おっと。のんびりもしてられないな。早く屋敷に戻って今回の出張の報告書を書かないと。迎えの源次さんは……まだ来ていないか。
ん? あれは…………冬花(とうか)?」

感慨にふけってばかりもいられないと、我に返り船着き場を見渡す。
其処にいたのは、何時も蔵臼の見送りや出迎えをしてくれる源次ではなく――冬花。
まだ蔵臼に気付いた様子はない。心ここにあらずといった様子で、所在なくぽつんと佇んでいる。其処にいるだけで周囲が心和むような、笑顔が魅力的な彼女だったが……今日はまるで別人のように、覇気のない様子。蔵臼は、何時もと全く違う彼女の様子に首を傾げながらも、きっと源次にこき使われて疲れているのだなと微笑み、彼女に向けて歩を進めた。
一歩。二歩。三歩。
「……………?」
あと10メートルもない距離まで近付いたというのに、まだ冬花は蔵臼に気付かない。視線を落とし、何かを堪えるような仕草でぽつんと立ち尽くしている。
蔵臼は一瞬、後ろに回り込んで驚かせてやろうかとも思ったが、彼女の普段と違う様子を見てから普段通り声を掛けることにした。

「冬花、ただいま」
「え…………? あ、蔵臼さん!
申し訳ありません、私、ぼうっとしていて………!!」

彼女にとっては唐突な、蔵臼の出現。冬花はその長い黒髪が跳ね上がらんばかりに深々と頭を下げ、己の非礼を詫びた。
もういいと鷹揚に手を振った蔵臼だったが……それでも、冬花の頭が上げられることはなかった。頭を下げたまま、身じろぎひとつしない。
「冬花……? どうした? 何かあったのか?」
「…………………………」
先刻からの不審な行動に、ついに蔵臼は眉を寄せて彼女に問いかけた。
こんな卑屈な態度を取る冬花を、蔵臼は知らない。だから何か、彼女を傷つける深刻な出来事があったのではないかと考える。だが、冬花はその予測を裏切るように、下げたままの頭をぶんぶんと横に振った。
そして。



「………私が、悪いんです。
使用人のくせに、自分の身の程を弁えないことをしようと、したから――夏妃さまの、お怒りを―――」




六軒島の花嫁
第八話「この島から出ていけ」






「……………………」
「ほっほっほ、夏妃さま……蔵臼さまがお戻りになられるまで、まだ一時間もございますよ? そんなにそわそわしなくても。
ほら、お茶を淹れてきますので座った座った……ほっほっほ」
「あ、熊沢さん……すみません」
熊沢が、柔らかく両肩を掴んでくる。右代宮夏妃はそれに逆らうことなく、ソファにすとんと腰を落とした――今日は朝から、このやり取りがもう3回も繰り返されている。
腰を下ろしたばかりだというのに、夏妃は早くも落ち着きなく時計の針を睨み、物音がする度に弾かれたように窓の外に視線を投げ……そして、はあと大きな息を吐く。そんな夏妃の様子に熊沢は何か言ってからかってやろうかとも思ったが、視線の先に彼女が最も苦手とする少女の姿を認め、その年齢に全くそぐわない俊敏さで応接間を後にした。その一部始終を見ていた少女は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、ずかずかと歩み寄り、なおも落ち着かない様子でソファから腰を浮かせかけた夏妃に口を開いた。

「何ちょろちょろしてんの? いい加減ウザいからじっとしてなさい」
「あ……………ごめんなさい、絵羽さん」
「ん……? やけに素直じゃない。あんたもいい加減、この家のルールが分かってきたみたいね。そうやって大人しくしてればいいのよ」
予想に反して夏妃が素直に項垂れたのを、愉快に思ったのか。
喉が渇いて冷蔵庫に飲み物を取りに来ただけのつもりだったその少女……右代宮絵羽は、ちょうどいい具合に見つけた夏妃を苛めて日頃の鬱憤を晴らそうと、不敵な笑みを漏らしながら夏妃に向かい合う形でソファに腰を下ろした。
さてどんな嫌味を言ってやろうかと普段以上に滑らかな回転を開始した絵羽の頭脳だったが、その機先を制するような形で、夏妃がおずおずと口を開いた。その視線は床に向けられたまま。

「絵羽さん…………蔵臼さん、って………どんな人、なんですか………?」
「はァ? 何それ………どんな人、って………」

全く予期していなかった問いに、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう絵羽。それを恥じるように、他の誰にも聞かれていないかどうかきょろきょろと周囲を見渡してから、俯いたままの夏妃に再び視線を投げた。そして、夏妃が自分を馬鹿にしているわけでもからかっているわけではなく、真剣に問うていることをその様子から確認して……体勢を整えてから再びその口を開いた。

「……あんたがどういうつもりで、そんなこと訊いてるのかは知らないけど。
兄さんは、見た通りの人よ。
外面は良くて、まあ大抵の人には嫌われてないわね。勉強もスポーツも、なんでも人並み以上にはできたと思う。でも、それだってずば抜けて凄いってわけじゃない。テストで100点満点を取ることはできないけど、必ず80点以上は取るような人、って言ったらいいのかしら。まあ、何でも無難にこなせる人、でもギャンブルとかビジネスには正直向いてないんじゃない? お父様の後を継ぐっていうのは、正直厳しいと思うけど」
言外に、『私の方が右代宮家の後継ぎに相応しい』と自己主張しながら、得意そうに実の兄を分析する絵羽。その兄の妻が目の前にいるというのに、その言葉には遠慮も自重も、欠片ほども存在しない。
しかし、今の夏妃にとってはそんな通り一遍の情報など、何の価値も持たなかった。そんなことは、あの日初めて彼に会い、行動を共にしたほんの数時間でとっくに分かり切っていたこと。夏妃が知りたかったのは「その先」。蔵臼という人間の、本質の部分。自分の生涯を彼に捧げることが、果たして自分にとって後悔のない決断であるのだろうか。それを知りたくて、夏妃は藁をもつかむ思いで絵羽に問いかけたのだった。しかし、絵羽の答えは夏妃の問いの肝心な部分に答えるものではなかった。
「はあ……分かりました。すみません、お時間を取らせてしまって」
「ちょ……ちょっと待ちなさいよ! 人がせっかく答えてあげたのに、何よその溜め息は!」
失望交じりに息を吐いて立ち上がろうとした夏妃。その態度に激昂し、思わず絵羽は声を荒げた。腕を掴み、夏妃を睨みつける。
そして、今日初めて夏妃の顔を真正面から捉えた絵羽は……驚愕し、力なくその手を離した。
「あんた……もしかして昨日、寝てないの?」
「え? ええ……蔵臼さんがもうすぐ戻られると思ったら、何だか寝付けなかったもので………」
精気のない、青白い顔。
目の下には、たった一晩眠らなかっただけとは思えないほどに濃く刻まれた隈。
今の夏妃の深い苦悩を感じ取った絵羽は、それ以上何も言えずに立ち尽くし、黙り込んでしまう。
「ごめんなさい、絵羽さん。私そろそろ、蔵臼さんのお出迎えに玄関に行ってきますね。
お兄さんのことを教えてくれて、ありがとうございます」
そして夏妃は丁寧に頭を下げると……少しだけ危なっかしい足取りでこの応接間を出て行こうとして ―――ドアの前で、立ち止った。どうしたのかと視線でその背中を追う絵羽。

「あなたは、お兄さんのこと…………好き?」
「え…………」

意表を衝かれた問いに、絵羽の思考が一瞬止まった。
その一瞬の隙を縫うようにして、夏妃は今度こそ応接間を出て行った。
―――そして、絵羽は一人、取り残される。


「兄さん…………私……………」


夏妃が置き去りにしていった問いかけだけを、傍らに抱えたまま。







「………ただいま」
「お帰りなさい…………蔵臼さん」
ぎこちない挨拶。
新婚夫婦の一週間ぶりの再会とはとても思えないような、他人行儀な挨拶。そのあまりの硬さに、夏妃の後ろに控えていた熊沢は、思わず苦笑しながら助け舟を出した。
「ほらほら、赤の他人同士のご挨拶でもあるまいし。いつまでも玄関先で立ってないで、おふたりで散歩にでも行かれてはどうですか? 今日は本当に気持ちのいい天気ですよ? ほっほっほ………」
「そ……そうだな。夏……妃、行こうか?」
「は、はい…………そう、しましょうか………」
―――赤の他人同士の方が、余程ましだ。
それぞれにその思いを押し殺して、蔵臼と夏妃は再びぎこちない微笑をその疲れた顔に貼り付かせた。蔵臼はジャケットを脱いでから熊沢に渡し、「それじゃあ、少し出掛けてくるよ」と、背後に控えていた冬花に告げた。
「あ……! は、はい………」
「…………行きましょうか、蔵臼さん」
夏妃は蔵臼の手を掴むと、それまでの固い動作から一転して玄関先から歩き去っていった。不意に手を引かれた蔵臼も面食らったようにして夏妃の後を慌ててついていく。
一瞬、夏妃と冬花の視線が交差する。
慌てて頭を下げた冬花。それに目をくれることなく、夏妃は蔵臼と連れだってこの場を後にした。

「………………………」
「……………冬花さん? どうかしましたか?」
「い、いえ……! それでは熊沢さん、夕食の準備にかかりましょうか?」
何時もと違う様子の冬花に、熊沢が怪訝な顔で問うたが……彼女はなんでもないと首を振って、そそくさと屋敷の中へ歩き出していった。
その心中は、彼女自身しか知らない。
まだ、今は。


「済まなかったな、夏妃………。
何も言わずに、いきなり一週間も留守にしてしまって」
「いえ……私も、いろいろやるべきこともありましたし、これからのことを整理して考えるのに、ちょうどいい時間でしたから………」
「そうか………」
交わす言葉は、少ない。
それでも、蔵臼と夏妃はただ沈黙を押し通すのではなく、少しずつ自身の気持ちを吐露しあうことを選んだ。それは、彼らの成長。一週間という時間がもたらしてくれた、ほんの僅かな精神の安定。
彼らは、薔薇庭園前のベンチ――この一週間、夏妃が毎日の休憩時間を過ごしていた場所――に並んで腰掛け、ぽつりぽつりと静かな会話を始めていた。
午後の日差しが、柔らかくこの島を包み込んでいる。暑くもなく、寒くもなく……あと一時間もすれば日も沈み寒くなってくるのだろうが、まだ外で過ごすには十分に暖かい。
ネクタイを締めたままだったことを思い出した蔵臼はワイシャツの襟に手を差し込んでネクタイを外し、そのままスラックスのポケットに放り込む。その仕草が可愛らしかったのか、くすりと微笑む夏妃。蔵臼もそれに気付き、照れ隠しにぼりぼりと頭をかいた。

―――そんな和やかで静かな、何とも心地よい空気が、蔵臼の背中を押した。
そして、温かく送り出してくれた南條の、人懐っこい笑顔も。


「…………あの時は、済まなかった」


繰り返される、謝罪の言葉。
しかしその「済まなかった」は、最初に彼が口にしたそれとは、まるで意味が違っていて。
夏妃も、すぐに「あの時」が何時のことなのかに思い当たった。いや、昨日から一晩中考えていたことの半分は「あの時」のことだったから、ついにこの時が来たと思わず身構えた。
隣に腰掛けて、ぽつりぽつりと話し始める蔵臼。夏妃も、膝の上に両手を置いて彼の言葉に耳を傾けた。

「あの時は……君の平手打ちをもらって……つい、頭に血が昇った。
言い訳に過ぎないのは承知しているが………女性に殴られたことなんて、今までなかったから。もっと君のことを気遣って接するべきだった。本当に、済まない」
「……………………」

「君は………何のためにこの島に来た!? 俺の子を産むためではないのか!?」

あの台詞が、再び夏妃の胸を深く深く抉る。
いや、再び抉った、のではない。あの言葉が蔵臼の口から放たれた瞬間から、夏妃の胸には抜けない棘のように刺さったままだったのだ。その痛みを、思い出しただけ。2、3度深呼吸を繰り返し、夏妃はまた押し黙った。
そして、夏妃は知る。
もうひとつ、彼女の心に深く打ち込まれたままの「あの言葉」。
あの小さな小さな独り言が夏妃の耳に届いていたことを、蔵臼は知らない。そのことを伝えようかと、一瞬迷ったが……夏妃はギリギリのところで思いとどまった。蔵臼は、自分に誠意を見せてくれた。ならば、今度は自分がそれに応える番だと、思い直して。

「いえ……あの時は、私の方から『そうなること』を望んだんです。
それなのに、土壇場になって大声を出して、子供みたいに泣いて………蔵臼さんが怒るのも、当然です。私の方こそ、ごめんなさい…………」
「夏妃………」

ぺこりと頭を下げた夏妃。
蔵臼は、彼女の両肩を優しく掴んで。
「今日から、また始めよう……私たちの、結婚を…………」
「………はい」

夏妃は、柔らかく微笑んだ。
その笑顔の下に隠れた感情を、必死に押し殺すようにして。





「―――昨日、母に会ってきたよ」
「え…………お義母さま、に………?」
この島を包む空気が、少しずつ冷たさを増してきた頃。空も、心なしか暗くなってきた。
あの後もベンチに座ったまま、とりとめのない会話を続けているふたり。数時間前の硬いやりとりが嘘のように、この一週間のことをあれこれ笑いながら話している。
この一週間の、夏妃の涙ぐましい努力。そして、それをちっとも認めてくれない源次への恨みごと。蔵臼は涙目の妻の機嫌を損ねないように、笑いを堪えながら相槌を打った。
毎日が凄まじい速度で流れていく、東京の風景。昨日まで何もなかったところに、今日はビルがにょきにょきと建っているんだと、興奮しながら身振り手振りで語る蔵臼。夏妃は夫の子供のように無邪気な目を微笑ましく思いながら、自分の知らない世界の話にすっかり魅了された。
……そうやって、ふたりが出会ってから初めて、心安らぐ時間を過ごしていた時。
そろそろ夕食の時間だと立ち上がりかけた夏妃に、蔵臼は昨日の出来事を告げた。


「…………母は、本土の病院に入院している。
精神(こころ)の病でね………これを知る人間はほとんどいない。父の意向で、このことは誰にも話さないように、と厳命されているんだ。世間体が悪すぎるからと、ね。
君は他人ではなく私の妻なんだから、隠し事をせずあの時話すべきだった……済まない」
「蔵臼さん…………」
あの時。
兄弟との顔合わせで、激昂した絵羽に紅茶を浴びせかけられた、応接間での出来事。数日後、その話題になった時の留弗夫の不自然な態度。それらが、夏妃の心の中ですとんと収まった。あの時は、何故自分がこんな目に遭わなければならないのかと理不尽な思いを抱いていたが……心の病、金蔵の厳命、そして多感な年頃の絵羽……それらを合わせて考えると、夏妃はあの時の絵羽や留弗夫、そして蔵臼の態度も頷けると納得することができた。
確かに、他人に軽々しく話せることではない。
だからこそ、こうして蔵臼が話してくれたことが、嬉しい。

「話してくださって……ありがとうございます」
「いや……私の方こそ………済まなかった」
「くす……! 蔵臼さん、今日は謝ってばかりですよ……ふふっ」
「ん……そうかな? はははは……おっと、何やら雲行きが怪しくなってきたな。そろそろ戻ろうか」

不意に空を見上げ、慌てて立ち上がる蔵臼。
すでに日が沈みかけていた……だけではなく、いつの間にか大きな雲に覆われ始めていた空は今にも雨が降り出しそうなほどに暗くなっていた。
こんなに話しこんでしまったと、源次のお小言を覚悟して立ち上がる夏妃。
そして蔵臼が、ああと思い出したように話し始めた。
―――夏妃が、最も聞きたくない人間の名を呼びながら。







「そういえば夏妃、昨夜冬花をきつく叱ったらしいな。今日出迎えに来た時も、そのことでひどく落ち込んでいたよ。『勝手に寝室を掃除しようとしたこと、申し訳ありませんでした』ってね。
まあ、時々お節介すぎるのが彼女の悪い癖なんだが……君の負担を少しでも軽くしたいという気持ちからだと思うから………ひとこと言ってあげてくれないか? ああ見えて結構繊細なんだよ、冬花は「冬花さんのことは、よくご存じなんですね?」
「まあ、彼女がうちに来てから長いからね…………夏妃?」







そこまで答えて、ようやく気付く。
夏妃の声音が、薄気味悪いほどに冷え切っていたことに。
そして。







「蔵臼さん………ひとつ、お願いがあります。
冬花さんを、この家の使用人から、外してください。蔵臼さんなら、できるのでしょう?」
「……何をバカなことを言っているんだ、夏妃。
彼女は優秀な使用人だ。現に、彼女を雇いたいという申し込みなんて山ほど来ているよ。それだけ優秀な人間を手放す理由なんて、ひとつもない。大きなミスを犯したわけでもないしね「あの人は!!」



再び、蔵臼の声は夏妃にかき消された。
今度は、凄まじいほどの熱量を感じさせる……女の声で。

「あの人は……蔵臼さんのことを………男性として想っています!!
そんな人と同じ家に暮らすなんて、私耐えられません!!」
「………夏妃、口を慎め。それ以上、彼女の侮辱は、この私への侮辱だ。
彼女は長年、この家の為に頑張ってくれている。使用人として。
彼女をこれ以上冒涜するなら……たとえ君でも、許さない」
「……………!!」

かつて、絵羽の暴言から自分を守ってくれた言葉。
その言葉が、今度は彼女自身に突き付けられた。

「蔵臼さんも……冬花さんのことが……好き、なのです、か…………?」
「……いい加減にしないか、夏妃。冗談で済むのは、ここまでだ。
それ以上くだらない下世話な想像をするなら、私だって怒るぞ?」

蔵臼の声が、さらにもう一段低くなる。
彼自身、何故夏妃がこんなことを言い出すのか、全く理解の範疇を超えていた。
確かに、冬花は蔵臼と年齢が近く、また付き合いも長い。だから、時に使用人と主人という立場を忘れ、対等に話すことだってある。そんな冬花の気安さは、むしろ蔵臼にとっては好感さえ抱けるものであることは間違いなかった。金蔵を除くすべての人間は、自分の機嫌を伺い、いつも卑屈な笑顔で接してくる。そんな連中とも笑って付き合わなければならない蔵臼に、彼女だけは気兼ねなく接してくれる。それがどれだけ自分の心を軽くしてくれているか、どれだけ感謝しているのか……そういう意味では、蔵臼にとって冬花は間違いなく「大切な人」であった。だがそれが何故、男女の関係だと勘繰られなければならないのか? しかも、この島に来てまだ数えるほどの日数しか経っていない夏妃が、冬花の何を知っているというのか? 
自分を責めるだけなら、まだいい。許そう。蔵臼はそう思った筈だ。
だが、冬花を侮辱するのは、決して許せない。それがたとえ、仲直りしたばかりの妻の言葉であっても……笑って聞き流すことなど、蔵臼には断じてできなかった。
そんな蔵臼の心中など知る由もない夏妃が、さらに言葉を重ねる。

「冗談で、こんなことは言いません……っ! 
冬花さん、使用人のくせに何時も『蔵臼さん』だなんて、馴れ馴れしく呼んでいるじゃないですか!? どうして、そう呼ばせているんですか!? おかしいじゃないですか!!」
「あれは……彼女とはもう長い付き合いだからだッ! お互いに気心も知れているし、今更他人行儀な呼ばれ方などしてほしくないからだ! それに、何時『さま』付けを強制した!? 源次や熊沢さんにだって、そんなことは言ってない! あの人たちは自分の意思でそう呼んでいるんだ!! 君にあれこれ言われる筋合いなんてないっ!!」


ぼろぼろ。
ぼろぼろ。
崩れていく。
崩れていく。
お互いが歩み寄り、修復したかに見えた、ふたりの関係が。
ぼろぼろと。
無残に崩れ落ちてゆく。
―――最初から、修復などされていなかった。
すべて、見せかけ。
一週間前のあの夜の、ただの焼き直し。出来の悪い再放送。性質の悪い模造品。
本当は一歩も先へ進めていなかった2人の、これが現実。
夢のような楽しいひとときは、あっという間に過ぎ去り。
そこには、現実だけが残りました。


「じゃあ……言わせていただきますっ!! 
『…………また、冬花に叱られてしまうな。
女房のエスコートもまともにできないようでは、ろくな男になれない………か』
あの言葉は何だったんですか!? 私、あの時ちゃんと聞きました!!
あの日だって、私に隠れてこそこそ会っていたんでしょう!? 冬花さんとふたりで、世間知らずの私のことバカにして! 笑って!! さぞ楽しかったんでしょうね!? どんな気持ちだったんですか!? 私があなたに抱かれてもいいなんて言った時は、我が侭な女が思い通りになった時は!!」
「―――君が父さんの部屋に入って行った後、冬花と話したのは本当だ。
だが、それはただの偶然だ! それに、彼女は君のことを本当に心配していたんだぞ!? だから私を叱ったんだ、もっと優しく接しろと! それだけのことだ!!」


ぼろぼろ。
ぼろぼろ。


「もういいですっ!!
何も……聞きたく………ありませ………ん………!!」
「―――――――――――――――」


かろうじて、絞り出した言葉。
その言葉に蔵臼は唖然とし、力なく首を横に振った。
そして、ふつふつと湧き上がる―――怒り。
何なんだ、目の前のこの女は。
自分から誘っておきながら、自分勝手にも男を殴り。
一週間後に再会して仲直りできたかと思えば、くだらないことでヒステリーを起こして。自分の最も信頼する使用人を、勝手な妄想でこうもひどく侮辱する。



「もう…………無理だな」






この結婚は、最初から無理があった。
確かに、それに巻き込まれた夏妃は可哀想な被害者でしかない。
だから、もうやめよう。
彼女の傷が、まだ浅いうちに。
彼女は、この島には向いていない。
いくら渡せば、彼女と彼女の両親は納得するだろうか。
後で、弁護士と相談しよう。
後になって「あっさり捨てられた」なんて騒がれるのも面倒だから。
――もう、いい。それを考えるのも、もううんざりだ。




「…………出ていけ」
「え………?」





ああもう、これだから女は嫌なんだ。
まあいい、これが最後だ。この女の顔を見るのも、これが最後だ。
せめて最後は、この馬鹿女にも理解できるように、はっきりと言ってやろう。






「明日、この島から、出て行ってください。

あなたとの結婚は、ここで終わりです。

後日、十分な慰謝料をお支払いしますので。

それでは、短い間でしたが、お世話になりました」





次の瞬間。









ばしんっ!!










猛烈な音と同時に、夏妃の左頬が弾け飛んだ。






それから、どのくらいの時間が経ったのか。
彼が自分自身を取り戻した時には、すでに夏妃は姿を消していた。
そして、彼の全身を打ちつける、激しい雨。
蔵臼は、ふらふらと眼前の薔薇庭園に歩み寄る。

「う……う……うおあああああああああああああ!!」

―――手当たり次第に、薔薇の花々を蹴り飛ばす。
すでに雨で萎れていた薔薇たちは、あまりにも無残にその生を散らしていった。
そして疲れ果てた蔵臼は、どうと地面に倒れ伏す。
その肩は大きく上下に揺れ………小刻みに震え始めた。
先刻夏妃を殴り飛ばした右の手のひらが、燃えるように熱い。
………蔵臼を責めるように。
その熱は何時まで経っても、引くことはなかった。




「何をやってるんだ、俺は………これじゃ、父親以下じゃないか………ッ!!」




両目から溢れ出る熱い涙が、冷たい雨に流されていく。



右代宮蔵臼と、右代宮夏妃。
彼らの結婚は、あまりにも短い結婚は。
この時、終わりを告げた。






<つづく>


2010.10.17 Sun l うみねこ l コメント (0) トラックバック (0) l top

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