こんにちは、六軒島の花嫁第15話が完成しました。
今回も担当は豚骨ショウガさんです。それでは始まります。










「蔵臼さん……そろそろ、休憩にしませんか?」
「ん? 冬花か……今何時だ?」
「―――もう夕方の4時です。
蔵臼さんったら、一度ボクシングの練習を始めたら他のことなんて全然見えなくなるんですね! 私、もう5分以上此処にいるのに、まるで気付いてくださらないんですから!」

少しだけ、頬を膨らませて。
口元を、真一文字に結んで。
でも、ばれている。聡明なこの人には、完全にばれている。
私の目が笑っていることを。私が、ちっとも怒ってなんかいないことを。

「ああ、悪かったな。シャドウボクシングを始めると、俺何も聞こえなくなっちまうから。
そろそろ休憩にするか……よっと」

ばふん。

「きゃ……! いきなり何投げてるんですか! 
もう、私まで汗くさくなっちゃうじゃないですかぁ………」
「冬花もお子様だなァ? 男の汗の魅力に気付かないとは」
「いや、蔵臼さん私より年下なんですけど。男の子なんですけど」

ぶつぶつと文句を垂れながら、自分の顔面に直撃して地面に落ちた蔵臼のシャツを拾い上げる冬花。手に取った瞬間、ぐっしょりと汗に濡れた感触に一瞬顔をしかめたが……蔵臼の言う「男の汗の魅力が分からないやつ」と思われるのも癪だったのか、澄まし顔で替えのシャツを手渡す。それすらお見通しだったのだろう、真新しい綿のシャツに袖を通しながらにたにたと笑いを堪える蔵臼の表情は年相応に、いや、年齢よりも幼く見えた。
最近、冬花にだけ見せてくれるようになった笑顔。
彼女の大好きな、その笑顔。
すっかり毒気を抜かれたのか、冬花もまた彼女本来の朗らかな笑みをたたえながら、水筒の水を蔵臼に手渡すのだった。彼女の予想通り、一気に飲み干す蔵臼。おかわりを要求する彼の笑顔は、今度は子供っぽさよりも精悍さを感じさせる。万華鏡のようにころころと表情を変える蔵臼のことが、冬花にとっては好ましかった。
そしてふたり並んで、草むらに腰を下ろす。
まだ全身から滴り落ちている汗をタオルで何度も拭いながら、何度か深呼吸を繰り返す蔵臼。その仕草をくすくすと笑いながら、冬花はしみじみと口にする。

「それにしても……本当に、蔵臼さんはボクシングがお好きなのですね。時間があれば此処に来て、走ったりなわとびをしたり、その……シャドウボクシングですか? 同じ練習ばかりで、飽きたりしないんですか?」
「ん? 別に好きでやっているわけじゃないって前にも言っただろ? 単なる体力づくりだって。飽きるとかそういう問題じゃないから。
右代宮家の男は、頭だけ良くたって駄目だ。少々の無茶にもへこたれないくらいの、強い体もないとな。ただの、体力づくり。別にボクシングが好きとか、そんなんじゃないんだって」
「はいはい、そうでしたね。そういうことにしておきます」
「何だよ冬花ァ~? やけに引っかかる言い方だな」
「いえいえ、そんなことはありませんよ~?」

蔵臼の怪訝な視線をかいくぐるように、冬花がぱんぱんと土を払いながら立ち上がる。彼女とて、時間が有り余っているわけではないのだ。すっかり仕事にも慣れ、源次からも熊沢からも「一人前」として扱われ始めた彼女の仕事は、少しでも気を抜くと一気に溜まってしまうほどに多い。忙しい仕事の合間を縫って、此処に差し入れを持ってきているのだ。そのことに思い当った蔵臼は、それまでの無邪気な少年ではなく、右代宮家の人間として感謝の言葉を向けた。
立ち上がり、荷物を片づけながら、ぼそりぼそりと。
僅かに、照れをその横顔に滲ませながら。

「―――悪いな、冬花。何時も、着替えとか水とか持ってきてくれて。
お前だっていろいろ忙しいんだから、無理しなくてもいいんだぞ?」
「はい。無理はしていませんから大丈夫ですよ、蔵臼さん。私が勝手に、この場所が気に入っているだけですから。
海が見渡せて、しかもたくさんの緑に囲まれた、この場所が」
「……そっか。お前も此処、気に入ってくれたのか」
「はい、だから心配は無用です」

それきり、口を閉ざすふたり。
さらさらと流れてゆく爽やかな風。
まさに、今の彼らの心境そのものだった。
蔵臼の額に浮かんでいた無数の汗の滴も、見る間に乾いてゆく。あまりに心地よかったからか、そのまま地面に背中を預けて大の字に寝転がってしまう。そのままにしておけば、数分で寝息を立て始めることだろう。これからも仕事が残っている冬花はさすがに使用人服を汚すようなことはできなかったが、くすくすと口元に笑みをたたえたまま、目を閉じた蔵臼の穏やかな寝顔を見下ろした。
そして、視線を少しだけ動かせる。
蔵臼の肩に掛けられたままの、古ぼけたボクシンググローブ。
何度も縫い直された跡が見える、色褪せたボクシンググローブ。 
初めて見た時には、蔵臼は何故こんな古い道具を使い続けているのだろうと疑問に感じた。普段の彼が身につけている物、実際に手にする物はすべて新品同様に美しく――実際、ほとんど使い捨てのように扱われているのだろう――ピカピカに磨かれているのだが……ボクシンググローブに限らず、この空き地にある器具の数々はもう何年も使い古されていて、隠しようがないほどにくたびれていた。
しかし、今の冬花は知っている。
蔵臼にとって此処にある道具は、かけがえのない大切なものばかりだということを。
……1か月前のことを思い出す。
初めて彼の本心に触れ、友達になろうと固い握手を交わした、あの夜の出来事。
蔵臼は、泣いていた。
変わってしまった父を、父を変えてしまった戦争を憎みながら、それでも元の父に戻ってほしいと、体中の思いを振り絞って、叫んだ。
今や彼の肩に掛けられたボクシンググローブだけが、かつての父親と蔵臼を結ぶ唯一の絆なのだ。戦争に行く前の、寡黙だが優しかった父が買ってくれた、蔵臼にとって黄金の山と引き換えにしても手放すことのできない宝物なのだ。冬花はあの夜、右代宮家屋敷の娯楽室で、彼の苦しみと願いの一端を垣間見ることができた。あの出来事がなかったら、自分と蔵臼は今でもただの「主人と使用人」の関係に過ぎなかっただろう。こうして親しく言葉を交わすことも秘密を共有することもなく、関わり合うことのない適度な距離感を抱えたまま日々を過ごしていただろう。そう考えると、こうして蔵臼と仲良く接することができる今がたまらなく大切な時間に思える。
そして彼女は、そのボクシンググローブを優しく撫でる。蔵臼の宝物を、壊れないように、そっと、そっと。
―――その仕草が合図だったかのように、蔵臼はむくりと起き上がった。

「……っと。そろそろ親父が帰ってくる時間だな。今日はこのあたりにしとくか。
悪い冬花、ちょっと片付けを手伝ってくれないか?」
「はい、蔵臼さん。私もそろそろお勤めに戻らないといけないって思っていたところでした」

ぱんぱんと埃を払いながら、蔵臼が立ち上がる。周囲のトレーニング器具を、要領の良い手つきで近くの倉庫に運びこんでゆく。片付けを手伝うのが初めてではない冬花もまた手慣れた様子で小さな器具を抱えてその後を追うのだった。

「ふう……これでよし、っと。今日もいい汗かいたな。それじゃあ、そろそろ学生の本分に取り掛かるとしますか。今日はそこそこ宿題も多いしな」
「そうですか。私の方も、今日はお仕事がてんこもりです。お互い大変ですが頑張りましょうね!」
「ああ、そうだな。
あ、冬花……もう言うまでもないことだけど、このことは――――――」

蔵臼の声が、少しだけ低くなる。冬花も、少しだけ畏まって頷く。
こうして冬花がこの秘密のトレーニング場に訪れるようになってから、帰り際に必ず交わす約束。
もちろん、冬花は約束を破るつもりは毛頭ない。素顔の蔵臼と立場を越えて……「友達」として接することのできる場所を、時間を、自分の手で奪うようなことは、決して。
しかし、既に形骸化してしまった毎回の「約束」に、冬花は全力で頷く。
―――冬花は好きなのだ。大好きなのだ。



「はい、もちろん。このことは、蔵臼さんと私、ふたりだけの秘密です」
「ああ………その通りだ。ありがとう、冬花」



自分が毎回同じ返答を返すたびに、彼が浮かべる笑顔が。
蔵臼と同じ秘密を持つ喜びを再確認できる、この瞬間が。
蔵臼と自分は、ただの主人と使用人ではないのだと思える、この時間が。


「そんじゃ、お屋敷に帰りますか。成金趣味でセンスのない、ただデカいだけのお屋敷に」
「はい、帰りましょう。蔵臼さんと………私の、家に」
「そうだな。俺と……俺の大切な友達が住む、ただデカいだけのお屋敷に」


夕焼け空が、六軒島を優しく包み込み始める。
先に歩き始めた蔵臼から三歩後を、冬花は歩き始める。
そして蔵臼の言葉がゆっくりと、彼女の胸に染み込み始める。
そして彼女の胸は、少しだけ痛み始める。
ちくちくと、冬花の胸を刺し始める。
そして冬花は、俯き始める。
始める。始める。始める……………。
1か月前は、こんな痛みは知らなかった。
三週間前は、こんな痛みは知らなかった。
二週間前から、少しだけ痛み始めた。
一週間前には、もう少しだけ痛み始めた。
今日は、今までよりも少しだけ痛かった。
何だろう、この痛みは。
どうして、蔵臼さんといる時にだけ、私の胸は痛むんだろう。
どうして、蔵臼さんのあの言葉にだけ、私の胸は痛むんだろう。



夕焼け空に視線を向けても、答えはなかった。
蔵臼の背中は何時の間にか小さくなっていたから、冬花は慌ててその後を追う。








どうして、蔵臼さんが「友達」と言うたびに、私の胸は痛むんだろう。










六軒島の花嫁

第十五話「追憶の白(後編)」







2011.08.26 Fri l うみねこ l コメント (1) トラックバック (0) l top