久しぶりにブログを更新。
六軒島の花嫁第十話です。今回は豚骨ショウガさん書いていただきました。
それではどうぞ。






「――おはようございます、月ノ部(つきのべ)さん」
「――おはようございます、右代宮さん」


其処には、何の感情も感じられなかったから。
彼女は10日前に捨てた筈の名で呼ばれたことにも戸惑うことなく、目の前の青年に向け挨拶の言葉を返した。そしてその挨拶にも、何の感情も込められてはいなかった。
しかし青年はそれをも意にも介さず、右手で抱えていた数枚の便箋をぱらぱらとテーブルの上に置く。既に帰り支度を整えていた彼女――夏妃は、ソファに腰掛けたままその文面を一読すると、おもむろに頭上を見上げながらはあと大きな息をついた。
そして、何時の間にか向かい側に腰掛けていた青年――右代宮蔵臼に小さな声で問う。

「それで……これからどうするのですか?」
「それを、あなたに訊きたかった。
勿論、このまますぐ帰国してもかまわない。あなたが台北をもっと見て回りたいと言うなら、それでもかまわない。お付き合いします」
「……………ッ!」

今いる場所がホテルのフロント前でなかったら、夏妃は大声を張り上げていたことだろう。思わず立ち上がり、拳を握り締めて何かを言いかけた彼女だったが……此処が公衆の面前であることを思い出し、仕方なくソファに腰掛けた。
それからも、今後のことをまるで他人事のように素っ気なく告げる蔵臼を、唇を噛みながら無言で睨みつける夏妃。しかし蔵臼は全く動じた様子もなく、「あの時」と同じように、感情を一切込めずに淡々と同じ言葉を繰り返した。
あの夜の雨の冷たさが、夏妃の脳裏に鮮烈に思い出される。蔵臼に殴られた頬の痛みも、そして、恐ろしいほどに感情を感じさせなかった彼の言葉も。……あの時から、蔵臼は夏妃に対して敬語を使うようになっていた。そして此処、台湾で仕方なく自分を呼ぶ時も「夏妃」ではなく「月ノ部さん」と、彼女の旧姓で呼び掛けるのだった。それは最早、蔵臼自身がこの結婚に何の未練も拘りも持っていないことの何よりの証であったし、夏妃自身にとってもそれは最も望んでいた結果に他ならなかった。
――だから、蔵臼のこの煮え切らない態度に夏妃は苛立ちを隠せなかった。
(どうせ一緒にいたって、楽しめるはずなんてないのに……! どちらにするのか私に決めさせようなんて、何て卑怯なの……ッ!! 日本に帰ったらすぐ離婚するんだから、こんな所に長居したって仕方ないじゃないですかッ……!! まったく、熊沢さんの所為で…………!!)
夏妃は、自分を置き去りにして早々に機上の人となった熊沢へ恨み節をぶつけた。それが全く意味のないことだとは分かっていても、自分たちを散々にかき回していったあの2人を、笑って許すことはできなかった。
彼らが自分たちを心配してくれて、このような機会を設けてくれたことはよく分かる。しかし、どうやら当の蔵臼は自分に謝るつもりもなければ、結婚を続ける気持ちもやはりないようだ。
あの雨の夜に宣言した通り。
ならば、どうして自分から歩み寄らなければならないのか。悪いのは蔵臼ではないか。一方的に自分を妻として迎えておきながら、優しく接することもしてくれず、次の日には何も告げずに出張に出てしまい、戻ってきたと思ったら妻に手を上げる……何と理不尽な仕打ちなのだろう。自分を殴った時のあの「目」……本当に、父親にそっくりだった。あんな人とは、もう一緒に暮らしていくことなどできない。熊沢さん達の気遣いはありがたいけれど、最初から無茶な結婚だったのだ。こんな気持ちを抱いたままで一緒にいても、楽しめる筈もない。だから、もうこのまま日本に帰国してしまおう。後のことは、実家の両親に任せよう………。

「あ、あの、右代宮さん……私はもう、このまま一緒にいても………
って、あら?」

様々な思いを巡らしてから、息を大きく吸って蔵臼にこのまま帰国したい旨を告げようとした夏妃だったが……何時の間にか、蔵臼の姿は目の前から消えていた。
きょろきょろと周囲を見渡すと、当の蔵臼がむっつりと押し黙ったまま不機嫌そうに近付いてくる。苦々しく口元を歪め、吐き捨てるように舌打ちしながら。
夏妃がその理由を尋ねる前に、彼の口が先に開かれた。

「……やられました。
もうこれ以上滞在しても仕方ないと思い、チェックアウトしようと思ったのですが……2日後までの宿泊代を、既に受け取っているとのことでした。しかも、『何を言われても、決して払い戻ししないように』との伝言を預かっているそうです。
まったくあの2人は、どこまで行っても抜け目ない………」
「そう、です、か……………」

南條と熊沢。この2人の用意周到さと老獪さに、苦笑を浮かべることしかできない夏妃。
一方の蔵臼は、憮然とした表情で視線を宙に彷徨わせている。日本に戻ったら南條に何と言って抗議しようかと考えているに違いなかったが……軽く頭を振り、夏妃へと視線を落とす。今度は、何も訊かずに。
夏妃も、もう降参した様子で溜め息を吐くと。

「……仕方ないですね。荷物を部屋に置いてきます。少しお待ちいただけますか?」
「はい………すみません」

頭を下げた蔵臼に微かに肯いてから、夏妃はソファから立ち上がりフロントへ荷物を預けに歩き去った。そのどこまでも他人行儀な言葉遣いに、夏妃自身も気付かないほどの苛立ちを足音に込めて。

蔵臼は、その背中を見送りながら。
そして、夏妃は蔵臼のいた所から大分離れた、フロント受付前で。


「「…………………はぁ」」


2人は、気付くことはなかったが。
その溜め息は、長年連れ添った夫婦にも負けないほどに、息が合っていた。






六軒島の花嫁

第十話「台北ラプソディー」



2010.11.23 Tue l うみねこ l コメント (0) トラックバック (0) l top